第590話 寧々さん、安土城で於次丸を預かる(前編)

天正10年(1582年)4月上旬 近江国安土城 寧々


忠元は九州にいるため、すぐに返事が来ないことは明らかであるため、孫娘を抱いた後、わたしたちは先に他の用を済ませるために清洲を出立した。


次の目的地は越前府中城で、次郎五郎と阿国ちゃんの子・菊幢丸君、それに新九郎様と香菜の娘・紗香ちゃんとそこで対面する予定であるが、間にある近江に立ち入った以上、信長様や帰蝶様への挨拶をしないわけにはいかない。


少し遠回りになるが、こうしてわたしたちは安土城に立ち寄ることにした。


「上様にはご機嫌麗しく、恐悦至極に存じます」


但し、政元様が居る以上、わたしはあくまで脇役だ。関東管領としてまずご挨拶なされて、用意していた献上品の目録を小姓の蘭丸君に手渡す。若狭にいた頃と比べて大した内容ではなかったが、その原因は全て信長様にあるので、文句を言われる筋合いはない。


「……中納言、江戸は如何か?」


「え?江戸ですか。いやあ、ホント何もない草だらけの田舎でして。もしかしたら、人よりタヌキや狐の方が多いかもしれませぬなぁ!」


どこかで聞いたような台詞だが……政元様は信長様の御下問に対してそのように嘘を吐かれて、さらには「江戸城は至る所で雨漏れがするあばら家でしてな」と……これまたどこぞの腹黒狸と同じような言葉を吐かれた。


だから、わたしは心の底から危惧の念を抱いた。政元様が糞康化しつつあることに。狸の生態はよくわからないけど、どうやらあまり近づけすぎると『嘘つき』がうつるようだ。よって、後で『接近禁止令』を出さなければと心に決めたのだった。


ただ……この回答は、信長様の同情を誘った点においては有効だったようで、献上品の返礼代わりに下総・東部三郡(香取、匝瑳、海上)14万石の切り取りを認めてくれた。


「苦労をしているようだからな。それくらいの事は認めようと思う」


「これは忝く……ありがたき幸せに存じます」


政元様がお礼を述べると、帰蝶様も「よかったわね、寧々」とお言葉を述べられて……騙しているだけに、わたしは何だか居心地が悪かった。ただ、だからといって正直に打ち明けて辞退しようとまでは思わない。口を噤んで、「ありがとうございます」とお答えした。


「それで……だ。実は中納言に頼みたいことがある」


しかし、美味しい話には裏があるとはよく言ったもので、わたしの居心地の悪さを吹き飛ばすお話を信長様はなされる。それは……関東に織田家の分家を作りたいという事だった。場所は、我が豊臣家の領地に含まれている下総・葛飾郡の古河城だ。


「それはつまり……先程のお話は、その補填もあるという事ですか?」


「まあ、そうなるな。ただ、割譲してもらう領地は2万石だから、加増には変わらない。だから、寧々……そう不貞腐れるな。決して前のようにおまえをいじめているわけではないのだからな」


からかうようにそう言われた信長様は、この2万石に結城領10万石、さらに下野や常陸から20万石から30万石ほど切り取って、そこに四男の於次丸様を入れる構想をぶち上げた。於次丸様は……前世でわたしの養子だった『秀勝』である。


「ん?どうした、寧々。そのように驚いた顔をして……」


「い、いえ……何でもございません。お気になされずに」


「そうか……?」


それゆえに、わたしは挙動不審になっていたのであろう。信長様だけでなく、政元様も心配そうにこちらを見ているので、気持ちを切り替えることにした。


ただ、もう一つ気になるのは、我が領地内にある古河城を除いて、他の土地はまだ敵方の所領であることだ。それゆえに、わたしは訊ねた。於次丸様の入府は、関東が平定されてから行われるのかと。しかし……信長様は首を左右に振られた。


「於次丸を先に古河に入れたい。中納言には面倒を掛けるが……どうか、関東管領としてその於次丸を補佐し、身の立つように取り計らってもらいたい。頼めるだろうか?」


頼めるかと言われているが、これは事実上命令だ。当然、断るわけにはいかずに政元様は心の内でどう思われているかは別にして、この命令をお受けするしかないかなかったのだった……。

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