第582話 寧々さん、孫に会いに出港する
天正10年(1582年)3月上旬 武蔵国江戸湊 寧々
もう妊婦ではないから馬にも乗れるのだが、関東管領の正室としての体裁があるという事で、わたしは港までの道をまた輿に乗って進んだ。御簾越しに見える風景は、前に船に乗った時よりも大分変っていて、成田大蔵大輔が主導する町づくりが着々と進んでいることを感じる。
そして、そんなことを思っていると港に到着し、わたしは先に進んでいた政元様と合流した。
「新次郎、留守中の事は任せたぞ。半兵衛のいう事をよく聞いて……な」
「承知いたしました、父上。道中、どうかお気をつけて」
ここには新次郎をはじめ、執政長官の半兵衛や慶次郎を除く長官の任にある者たちが見送りのために集まっていた。一方で、此度の旅に同行するのは、慶次郎、弥七郎、堀の次郎君、嶺松院殿、加奈殿だ。見送る者も見送られる者も暫しの別れを惜しみつつ、船に乗り込んだ。
「皆様、お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
前に見た南蛮船はまだ試行錯誤をしながら建造中という事で、今回の旅は安宅船で移動だ。但し、わたしたちが過ごす御座所は、かなり豪華な造りとなっていた。
「流石に管領様をお乗せするのに、掘っ立て小屋みたいなままにするのも申し訳ないですからな。少々ですが、手を加えさせていただきました」
そう説明するのは水軍の大将たる奈佐だが、合わせてこの後の予定も説明してくれる。この後、東海道沿いの港に泊まりながら、清洲まで行くということだ。
「ただ……部屋に籠っているのも、こうして海を眺めるにしても、暇よね……」
政元様は次郎君と部屋で碁を打ち、慶次郎と弥七郎は甲板に出てともに鍛錬に励んでいる。嶺松院殿と加奈殿は、船内の台所を借りてお団子を作っているが、わたしは寄せてくれない。
「出来たら真っ先に寧々様に試食をお願いしますので、どうかこちらはご懸念なく」
はっきりとそう言われて、気がつけばボッチになっていたわたしは、暇を持て余しているのだ。
だから、冗談っぽく、「前みたいに海賊が襲って来ないかしら」と呟いてみる。そうすれば、余計な旗を立てたとして、意外とそのような展開になりそうなのだが……残念な事にいつまで経ってもそのような船は現れなかった。
「……仕方ないわね。部屋でお酒でも飲みながら、時間を潰すことにしようかしら」
うるさい半兵衛もネチネチ弥八郎も江戸に置いてきたので、今は飲み放題だ。そう思って、船倉からお酒を拝借しようと足を運んだのだが……
「「あ……」」
どうやら、そこには先客が2名程居た様だ。但し……彼らはこの船の乗組員で、仕事をさぼって飲んでいるようであったが……。
「申し訳ございません!す、すぐに、仕事に戻ります!!」
「すみませんでした!!」
わたしの姿を見て、この二人は慌てて酒が残ったままの器を放棄して、この場から立ち去ろうとするが、わたしはこの二人を呼び止めた。「せめて、空にしてから行きなさい」と言って。
「あの……よろしいのですか?」
「いいんじゃない?あんたたちが居なくても、船は進んでいるんだから少しぐらいのおサボりは」
「は、はぁ……」
「それよりも、わたしにもお酒頂戴。あ……そんな小さな器じゃなくて、そちらの甕でいいわ」
「え……甕ですか!?」
「そうよ。何か文句ある?」
「ご、ございません!ど、どうぞ!」
甕を受取り、中身を見るが……比較的綺麗であった。だから、躊躇うことなくそちらに酒を注いで貰って、喉に流し込んだ。あれ?このお酒、初めての味だ……。
「ああ、これですか。紹興酒とかいって、明の酒らしいですよ。でも、中々いけるでしょ?」
「そうねぇ、これはおいしいわね。うん……おいしいわ♪」
しかし、どうして明のお酒がこの船にあるのか、疑問に思う。すると、この者たちは、船が時々明の寧波に行くことがあると教えてくれた。どうやら、例の薄い本を売るために……。
「それは大変ねぇ……」
「そうなんですよ!此間だって……」
まあ、本音を言えば、そんなこと知ったことではないが、こうしてお酒の相手をしてくれるのは助かるので、適当に相槌を打ってあげる。こうして、時間を有意義に潰す方法を見つけて、わたしはわたしで船旅を楽しく過ごすのだった。
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