第315話 寧々さん、腹黒狸に背を見せることを拒む

天正2年(1574年)2月上旬 遠江国龍潭寺 寧々


「一時はどうなることかと。……本当によかった!ご無事でよかった!」


今、わたしの目の前で、富田弥六郎は号泣している。和尚様の予想通り、気賀の町で彼の配下の兵に接触することができたようで、そこからわたしがここに居ると知って駆け付けてくれたのだ。


だから、「心配かけてごめんね」と、そんな彼を慰める。責任を感じて腹を切られでもしたら、我が家の損失だ。


「それよりも……徳川の動きはどう?」


「実は、大久保党の者たちが最近、気賀や本坂通でウロウロしているのを見かけたという知らせが。それゆえに、旅人を装ってそれとなく探らせたところ……やはり、連中は寧々様の行方を探していました」


「つまり、あの狸は本気でわたしを殺そうとしている……ということなのね?」


「おそらくは」


しかも、この井伊谷を治める井伊家は、前世を知るわたしからは信じられないが、どういうわけか徳川と敵対しているという。それゆえに、この地に逃げ込んだをの幸いに、わたしを始末してその罪を次郎法師殿に被せて一緒に処断する……あの糞タヌキなら考えそうなことだ。


「……となれば、尾張からの援軍を待つしかないということか……」


使者の僧がこの寺を発したのは5日前だ。運が良ければ、そろそろ清洲を発して三河に入るあたりだろうか。ただ……そんなことを思っていると、次郎法師殿がこの部屋に姿を見せた。


「寧々殿……徳川の兵がこちらに向かっているそうだ」


大将は渡辺半蔵。兵は500名余りで鉄砲は所持していないということだった。ただ、すぐに動ける井伊家の兵は100にも満たないそうで、彼女の表情はどこか青くなっていた。


「とにかく、この寺では勝負にならない。済まぬが、寧々殿。我が居城……井伊谷城にお移り頂きたい」


「井伊谷城……?」


聞いたことないなと思っていると、この龍潭寺の川向うにある小高い山にその城があるとか。


「そこに籠城するの?」


「他に選択肢がない。時間を稼いで、寧々殿が頼まれた尾張の援軍を待つしか……」


次郎法師殿はそう告げて、わたしに改めて移動することへの承諾を求めてきた。しかし、聞けば砦に毛が生えた程度の城とかで、果たして籠城策が通じるのか。加えて、あの糞タヌキを相手に後ろを見せるのは、正直な話、気に食わない。


「弥六郎。わたしの鉄砲や薙刀は、ちゃんと持ってきているわよね?」


「はい、それは……。ですが、どうなされるので?」


「決まっているでしょ。戦うのよ!」


足はまだ痛くて歩き辛いが、それでも黒王に乗り、落ちないようにしっかりと鞍や鐙に腰や足を固定してもらえば、あとはその黒王がわたしの足の代わりを果たしてくれるのではないか。さすれば、馬上から銃を撃つことはできなくはない。薙刀を振るうことだって……。


「いや、寧々様……。いくらなんでも、そのようなことをされたら、あとで某が竹中殿からどのようなお叱りを受けるか……」


「でしたら、弥六郎。この命に従えないのであれば、半兵衛ではなくわたしからお叱りを与えますよ?それでも良いのですか?」


わたしは諫める弥六郎に、従わなかった場合は特製味噌汁を飲ませるぞと脅した。ここは山里だし、きっと色鮮やかなキノコには事欠かないからと添えて。


「ご、ご無体な……」


「何がご無体よ!とにかく、わたしが戦うというのだから、あんたは黙ってついて来ればいいのよ。大丈夫。責任はわたしが取るわ!」


そして、そこまで言えばもう弥六郎は逆らわなかった。ただ……次郎法師殿は「正気なのか?」と、わたしの決意を無謀だと言ってきた。だから、笑い飛ばしてやる。


「何を言っているのよ。たかが兵力差は5倍じゃない。わたしは、京では50倍の敵と戦って勝った女よ。大したことじゃないわ!」


「ご、50倍……」


そう。天海が将軍だった頃に御所を攻めてきた三好勢との戦力比は、確かそれくらいだったはずだ。それゆえにわたしは、何も心配することなく、戦うことを決断する。次郎法師殿は、もう何も言わなかった……。

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