第314話 寧々さん、言い争う声で目を覚ます
天正2年(1574年)2月上旬 遠江国龍潭寺 寧々
「和尚!では、徳川に屈しろと申されるのか!?」
「このまま強情を張っていても、我らは寡兵。この谷に籠ったとしても、左程の時も持つまい。それはわかっておろう、次郎法師」
「しかし、奴らは見せしめと称して、気賀の民を虐殺したのですぞ!その中にはあの人だって。許せるわけが……!」
……かすかだが、そのような言い争いの声がわたしの意識を呼び起こした。そして、瞼を開けると、そこには見覚えのない天井が広がっていた。
「うう……ここは?」
しかし、辺りに誰もいないのだろう。わたしの声に応答はなかった。ゆえに、ゆっくりと体を起こして、左太ももに痛みを感じながらも、這うようにしてまずはこの部屋から外へ出ることにした。すると、すぐにドタバタと足音が近づいてきた。
「これは……ご婦人。無理を為されては……」
声の主は、この寺に助けを求めた時に応対してくれた和尚様だった。すぐに他のお坊様たちも駆けつけてきて、わたしは再びさっきまでいた布団の上に戻された。ただ……そのとき、柱の影からこちらの様子を窺う尼削ぎ姿の女性がいることに気づいた。
「あの……そちらの方は?」
「ん?……ああ、あの者なら、怪しい者ではないから安心してもらいたい。この井伊谷の領主である次郎法師だ」
「次郎法師……?」
まあ、上杉謙信も女性だったので、別にここの領主が女性であっても驚きはしない。しかし、あちらはどうやらそうではないようで、明らかにわたしを不審者のように見ていた。だから、その間違いを正すべく、堂々と名乗り出る。「若狭国主浅井右中将の妻、寧々です」と。
「浅井右中将様の妻と言えば……もしかして、公方様のお股に徳利をかぶせたという、あの徳利女?」
「……かぶせたことは否定しませんが、その徳利女は止めて頂けません?心の古傷が痛むので……」
ホント、あれから5年も経つのだから、いい加減忘れてもらいたいものだ。だが、そんなわたしの様子を見て、次郎法師殿は笑われた。「それは済まなかったな」と言われながら。
「それなら、徳川の間者というわけではないのだな?」
「ええ。寧ろ、その徳川に命を狙われて、ここに逃げてきた者でして」
「なに!?大名家の奥方である貴女を徳川が狙ったのか?」
そして、できれば詳しく聞かせてもらいたいと言われて、わたしはこれまでの経緯を次郎法師殿に説明した。腹黒狸に色々と意地悪をしていたら、逆恨みされてこうなってしまったと。
「それは災難だったな……」
「そうなのですよ。この上は、早く皆と合流して、あの狸に仕返しをしないといけないのですが……そういえば、和尚様。わたしの供の者たちは?」
意識を失う前に、確か救援を求めたはずだと思い出して、わたしはそう訊ねた。しかし、和尚は残念そうにお答えになられた。あの後、引佐峠に傑山さんが僧兵を率いて駆けつけたが、すでにそこには誰もおらず、役目を果たすことはできなかったと。
「そうですか……」
「ですが、そのお供の方々がお方様をお探しになられているのであれば、もしかしたらまだ気賀にいる可能性はあるかと思います。人をやって見つかれば、我が寺にいることを知らせたいと思いますが……」
「お願いします。護衛の将は、富田弥六郎といい……」
わたしは、こうして和尚様に富田の名を上げて、可能な限り無事であることを知らせてもらえるように頼み込んだ。無論、すでに一旦引き上げているか、それとも違う場所を探している可能性もあるが、責任を感じて腹を切らないうちに伝わることを願って。
「それと、尾張の清洲にいる息子にも知らせて頂けませんか?」
「清洲というと……なるほど、先頃城主となられた斯波武衛様ですか」
そういえば、忠元は左兵衛佐に任じられているので、「武衛様」と呼ばれるのだなと、そんなどうでもよいことを思う。だが、間違っていないので頷いて見せると、早速和尚は傍にいた僧に指示を下されていた。
「とにかく、後の事は我らに任せて、お方様はお体をお休め下さい。足の傷が治ねば、どこにも行くこともできませぬぞ?」
和尚の言われていることはもっともだ。それゆえに、わたしは素直に従い、再び目を瞑るのだった。
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