第313話 腹黒狸は、宿敵の失踪にスカッとするよりも青くなる

天正2年(1574年)1月下旬 遠江国浜松城 徳川家康


「なに、浅井の侍が気賀の辺りをうろうろしているだと?」


一体何のために。そう思っていると、知らせを持ってきた弥八郎は答えた。どうやら、甲斐に向かっていた東郷局が本坂通の引佐峠で襲われて、行方不明になったから探していると。


「気味のいい話だが、どういうことだ?いなくなったとは……」


「何でも、鉄砲で撃たれた時に馬が暴れて、そのまま家来たちを置いて走り去ったようでして……」


「なんだ、それは……」


あの憎っくき東郷局が撃たれたと聞いて、内心ではスカッと爽快な気分となるが、ただ場所が我が徳川の領内となれば、そんな容易い話ではない。儂は顔が青くなった。


「なあ、弥八郎。まさかとは思うが……おまえ、謀ってはいないよな?」


「もちろんでございます!某もまさか殿が短慮に走られて、そのような手段に出たのではないかと心配して参上した次第でして……」


つまり、東郷局の遭難に、儂も弥八郎も関わっていないということだが……


「なあ……そうも申し開きをしても、織田様は信じてくれると思うか?」


「いいえ、思いませぬな。当家が現体制に不満を抱いていること、またその元凶たる東郷局に遺恨を抱いていることは、きっと織田様もお見通しでしょうからな。此度の事、お耳に入れば、厳しい処罰を受ける可能性も……」


そして、弥八郎は言う。その時は良くて儂は出家の上で隠居、下手をすれば領地召し上げの上で切腹だろうと。いや……それは御免蒙りたい。大体、そもそもの話、儂は無実だ。


「弥八郎……ならば、どうする?」


「そうですな……。おそらくこの後、織田家ないし斯波家より捜索隊が派遣されることでしょうが、その者たちよりも早く東郷局を救出し、我らの仕業ではないと直に誤解を解くより仕方がないかと……」


「できるのか?」


「東郷局は、配下の侍の動きからして、この遠江のどこかにいることは間違いなさそうですからな。地の利はこちらにあるので、今からすぐに動けば……」


ためらう必要などあろうはずがない。儂はすぐに大久保七郎右衛門を呼び出した。平八郎や小平太では血の気が多く、そのまま織田方と戦を始めかねない。この者ならば、浅井の侍ともしぶつかっても、冷静な対応ができると信じて。


「よいか、七郎右衛門。絶対に浅井の侍とは揉めるなよ?儂らに東郷局殿を害するつもりなど全くないと言っても信じてもらえないかもしれないが、奴らの後ろには上様が居ると思い、我慢せよ。よいな?」


「はっ!」


「あと、東郷局殿を見つけたら、くれぐれも丁重にこの浜松までお連れせよ。よいな?『くれぐれも丁重に』だぞ?」


「はっ!」


七郎右衛門は、そう短く返事をしてから部屋から下がっていく。これで良し。あとは、奴に任せて、弥八郎の言うとおり、織田方の捜索隊より先にその身柄を押さえることを願うだけだ……。


「そういえば、気賀で思い出しましたが……井伊谷の井伊は、あれから何か言って来たのですか?」


「いや、何もないな……」


井伊家は代々、遠津淡海の北にある井伊谷を領地とする国人領主であるが、我らが遠江の統治を織田様から認められている以上は、いい加減臣従するか、あるいは領地を明け渡して何処なりへと出て行って貰いたいわけだ。


しかし、回答期限である昨年末をとっくに過ぎているというのに未だ回答が来ていない……。


「遠江に攻め込んだ時に、儂に逆らった気賀の民を殺したことが気に食わぬらしい。いっそのこと潰すか?その方が後腐れないし……」


「そういう短慮は禁物ですぞ。特に今は、東郷局のこともあるわけですから」


「そうだのう。もし、その兵が織田方の捜索隊とぶつかってもまずいわけだしな……」


だったら、この一件が終わるまで回答期限を延長して、そこまでに返事がなければ今度こそ潰すことにする。井伊谷自体は大した領地ではないが、大名たる者、舐められたらそこでお仕舞いだ。儂は容赦はしない。

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