第310話 寧々さん、甲斐に向かう
天正2年(1574年)1月中旬 尾張国清洲城 寧々
忠元の婚礼から5日後。わたしは旅支度を整えていた。但し、それはあのときの失態を本当に恥じて、息子夫婦に合わせる顔がなかったからではない。武田信玄公が危篤につき、一度わたしに会いたいから甲斐に来てほしいという書状を受け取ったためだ。
「本当に行くの?」
「何よ、母上。一昨日そう言ったわよね?」
「でも……もうちょっと居てもいいんじゃない?ほら、言うでしょ!親孝行、したいときには親は無しとかって……」
母上は今、清洲斯波家の付け家老の妻として、父と兄夫婦と共に城下の大きな屋敷に住んでいる。元は柴田殿が使われていたお屋敷だ。但し、わたしがお城にいる間は、城内に部屋を与えられていた。
「十分したじゃない!夏から正月まで、4か月も!それでまだ不服なの!?」
「正直に言って不服よ。だって、莉々ちゃんは若狭に帰っちゃったし、万福丸は殿様になって気安く会えないし……寂しいじゃない」
(寂しい?あれ……そんなことを言う人だったかしら?)
ただ、見ると白髪も増えていて、まだまだ20年以上生きることは知っているけど、歳をとったことは理解せざるを得なかった。今はまだ、父上には忠元を支えてもらいたいから一緒に暮らすわけにはいかないけど、いずれ何かの形で親孝行はしなければならないのだろうなとは思った。
「寧々様、そろそろ……」
だけど、供をする富田弥六郎がそう声をかけてきたので、わたしは母に「用事が終わったらまた帰ってくるから」と言い残して、集合場所へと向かう。そこには、供をする30名余りの侍と見送りをするために忠元と彩姫、それに家臣たちが集まっているのが見えた。
「何よ、忠元。大袈裟ねぇ……」
「甲斐は遠いですからね。道中のご無事をお祈りしております。あと……あちらでは、お酒を飲み過ぎないように……」
「ああ!?あんた……やっぱり根に持っているでしょ!わたしのせいで、婚礼の場で恥をかいたと……!」
「い、いえ……それはいつもの事なので、諦めておりますが……これ以上、恥をかかれるのは如何かと、母上の身の上を案じて申し上げているだけで……」
「わかったわよ!息子にそう言われたら、何も言えないからね!お酒は2升までにするわ。それでいいでしょ?」
「……全然わかっておられないではありませんか」
そうかしら?そう思っていると、周りから笑い声が上がった。解せぬ……。
「そういうあんたも、一向衆如きに不覚を取るんじゃないわよ。水野攻めで武功を挙げて皆に褒められたけど、それで油断していると足元を掬われて、酷い目に遭うこともあるから注意しなさいね?」
「承知いたしました。母上のお言葉、肝に銘じていくさに臨むことにいたします」
ちなみに、忠元は昨年秋の水野攻めにおいて軍勢を率いて知多郡に攻め込み、沓掛の簗田殿、先日失礼をした岡崎三郎殿と協力して、水野下野守を滅ぼす武功を挙げている。そのことがまた、この子を大人にしたのだと、今のやり取りからも思い知らされることになるのだった。
まあ……親としてはちょっと寂しいような気もするが、加増されて今や35万石の大名なのだ。息子の体裁を思えば、わたしも子離れしなければならない。
「じゃあ、そろそろ行くとするわ。半兵衛、喜兵衛……忠元の事、頼んだわよ」
「「はっ!」」
ただ、いつまでもここでモタモタしているわけにはいかない。信玄公の命の灯を思えば、急がなければならないのだから。
それゆえに、竹中半兵衛と武藤喜兵衛。この二人が居れば、忠元の事は大丈夫だと思って、後事の事は託して、わたしは弥六郎らと共に清洲のお城を出立した。但し、この時期の木曽路は雪が積もっている可能性があるため、東海道を東に進むことになる。
「問題は……遠江よね」
浜松城の徳川糞康が……果たして何もせずにわたしたちを通してくれるのか。きっと散々恨みを買っているだろうなと自覚しているだけに、道中何かあるとすればそこだ。ゆえに、その辺りは慎重に行動しようと心に決めるのだった。
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