第306話 大御所は、死んだはずの兄と再会する
天正元年(1573年)8月上旬 若狭国後瀬山城 足利義昭
「じゃあ、そういうことで……わたし行くから」
いや、「わたし行くから」じゃないだろ。やり取りは目の前で見ていたから事情はわかるけど、俺をここに連れて来ておいての放置は、流石に酷いんじゃないか!?一応これでも大御所だよ?敬意が足りないんじゃないか、母上……。
ただ、止める間もなく、寧々殿は莉々ちゃんを連れて軍列に加わり、この城から出て行ってしまう。そういえば、もう一つ。手紙の書き方を教える件も、これでは果たすことはできないと思うのだが……これもどうすればいいんだ?
「大御所様……仰せになりたいことは何となくわかります。すみません、うちの妻と娘がご迷惑をおかけいたしまして……」
「右中将殿……」
「しかし、ご安心を。ご滞在の間は、このわたくしが精一杯お持て成しをさせていただきます。それに……」
「それに?」
「大御所様所縁のお方ももうすぐお見えになるはずで……お、どうやら来られたようですな」
寧々殿の夫である浅井右中将が目線を向けた先には、一人の坊主が立っている。だが、そのお顔……見忘れるはずもない。
「兄上……」
死んだと聞かされていた兄・義輝公がどういう理由かはわからないが、俺の前に現れたのだった。
「死んだと聞いていたのですが……生きていたのですね?」
「見ての通り、足があるだろ?」
「はぁ……それはそうですが……」
ここは、城内の茶室。右中将の計らいで、今は兄と二人きりでこの場にいる。始めはこのようにお茶らけたように話した兄だが、その後はどうしてこうなっているのか、事情を俺に説明してくれた。
それは、叡山に隠棲したものの三好に命を狙われ続けて……そんな日々に嫌気がさして、死んだことにしたと。しかも、義姉上も同じように生きていて、一緒に暮らしているとかで……。
「あの……この事は周暠には?」
「あやつにも言うておらん。どこから秘密が漏れるかわからぬからな。それに、近衛にも……」
「近衛太閤にも言っていないのですか!?」
妹が凶行に及んだと聞かされて、近衛前久公は葬儀の時に大いに嘆き悲しんでいた。「こんなことになるのなら、是が非でも止めておけばよかった……」と。つまり、あれは演技ではなかったということか。
「……それについては、済まぬことをしたとは俺も思っている。しかし、そうでもしなければ、足利の血の呪縛から、逃れることはできなかったのだ」
だからわかってくれという兄に、俺は「ふざけるな」と言いたかった。前の公方に相応しく、葬儀も立派に執り行ったし、霊を慰めようと寺まで建てたのだ。流石にそれで「実は生きていました」はないだろうと。
しかし、それを口にすることは思い止まる。『足利の血の呪縛』というものに、俺もまた苦しんだ一人だからだ。代々受け継いだ足利の天下を守ろうと足搔き……力尽きたのは、兄と同じで……。
「兄上……足利の天下とは何だったのでしょうね?」
そして、気がつけば俺は、そのような質問を兄に問いかけていた。
「そうだな……何だったのだろうな。初代の尊氏公以来、240年余。一番力があった義満公の時代でさえも戦争は絶えず存在していた。果たして存在する意味があったか……」
存在する意味はあったと思いたかった。それでは、何のためにこれまで立て直そうと頑張って来たのかわからない。
「ただ……天下を譲った織田がこの国をより良いものにしてくれるのであれば、少なくとも俺たちが存在していた意味はあるんじゃないかな?」
兄はそう答えて、立てた茶を俺の前に差し出してきた。何も答えずそれに口を付けると……どこか苦く感じた。
「……意味のあるものにしてもらいたいものですね」
茶碗から口を放して、俺は自然とそう口から言葉を発していた。天下を譲った以上、どちらにしてももう何もすることはできない。その事に一抹の寂しさを覚えつつ。
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