第299話 腹黒狸は、一矢報いようと暗躍する

天正元年(1573年)6月中旬 遠江国浜松城 徳川家康


早馬によって京から届けられた上様からの書状を閉じて、儂は弥八郎をこの部屋に呼び出す。臣従した以上、従わなければならないことは重々承知しているが、腸が苛立ちで収まらず、何か一矢報いることはできないかと期待して。


「……殿。本多弥八郎にござる」


「入れ」


「はっ!」


幸いなことに弥八郎は比較的すぐに現れた。だから、儂は苛立ちの原因となっている書状を感情のおもむくままにそのひざ元に向けて投げつけた。


「これは……」


「なあ、弥八郎。儂は腹が立って立ってしょうがない。そこには京の伏見に城を築くから、人足と金を出せと書いてきた。臣従するとは確かに言うたが……ここまでするか!?誰のおかげで、背後を気にすることなく、天下を獲れたと思うておるのだ!」


こんなことになるのであれば、今川様を裏切らずにいればよかったと……あのとき、駿府で殺された家臣たちの妻女に申し訳なく思う。皆は、徳川の繁栄のために死んでいったのだ。それなのに……。


「畏れながら、殿。今は忍耐の時かと思います。怒りに任せて叛いたりすれば、それこそ駿府で死んでいった者たちに顔向けはできない結果を招くかと……」


「わかっている。頭ではな……」


だが、それでも何か……一矢報いることはできないかと、儂は弥八郎に問い質した。我が徳川の仕業であると気づかれずに、一泡吹かすことはできないかと。


「ならば……」


「あるのか?そのような秘策が?」


「……正直申して、あまりお勧めはいたしませんが、どうしてもと言われるのでしたら、刈谷の水野様を踊らせてみては……」


「伯父上を……か」


伯父の水野下野守は、尾張知多郡と三河碧海郡西部に領地を持つ12万石の大名だ。儂と同じように……いや、それよりももっと古くから織田家と盟約を結んでいるのだが、それなのに此度の信忠公将軍就任の祝賀行事に呼ばれることなかった……。


「……それで、どうするのだ?」


「少し煽って、謀反を起こさせましょう」


「謀反を……か。だが、我が徳川と水野は親類。疑われるのではないか?」


「疑われないように、伊勢長島の一向衆を利用します」


「一向衆を?」


そう言えば、弥八郎は一向宗の門徒で、加賀に居たと聞いている。


「実は、我が家の小者に一向衆に縁のある者がいます。名は……杉浦玄任と申して、先年越前に侵攻した加賀の一揆勢の大将だった男でございます」


「杉浦玄任……」


確かにその名は聞いたことがあった。越前北の庄で死んだとも聞いているが……そうか、生きていたのか。


「この者に密かに命じて、まずは長島の願証寺を焚きつけます。さすれば、あの寺の住持はまだ若い顕忍……。きっと思慮分別なく、必ずや織田家に対して蜂起するでしょう。そして……」


そして、弥八郎はさらに続ける。再び杉浦を使って、長島の一向衆からという体で伯父上に謀反を誘わせると。


「上手く行くのか?」


「おそらくは。服部党からの報告によれば、水野様は殿以上に織田様に蔑ろにされて憤っておられるとか。ならば、殿と同じく一矢報いようと考えられているはず。渡りに船とばかりに食いつくでしょう」


「しかし、そうなると……伯父上は?」


「無論、死ぬことになるでしょうな。ですが、織田様はそのとき必ず、殿に救援を求めて来るでしょう。おそらくは水野領の内、碧海郡5万石を与えるという条件で……」


なるほど……伯父上には申し訳ないが、悪い条件ではない。しばらく雌伏の時を過ごすことになるのだから、領地を得ることができるのであれば、乗らなければ損というものだ。


「それで、如何なさいます?」


「……良きにはからえ」


「はっ!」


弥八郎は、それだけ申して下がっていく。万が一、全ての事が露見しても、奴の暴走という体で徳川の家を守るのだが、その程度の覚悟なら持ち合わせていよう。何も心配はいらない。


あとは、信長がどう慌てて儂に縋るのか……見物だ。

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