第301話 寧々さん、浮気を疑われポロリと白状する
天正元年(1573年)6月下旬 若狭国後瀬山城 寧々
義昭公の越前行きの許可は、本人の予想通りあっさり認められた。背景には、現在織田家は安土と伏見に巨大な城を築城しており、人足も資材も足り苦しい事情があるそうだ。そのため、そのあたりの問題が解決するまでは、寧ろ越前にいてくれるのは大歓迎だとかで。
まあ、ずっと滞在するかは別として、こうして出立の許可を得た以上、わたしとしては文句などなかったが、そんなわたしの越前帰国に待ったをかけた人がいる。
それは、今目の前でわたしとの再会に感極まって泣いている夫・政元様だ。出立の準備をしていたところに熊々手紙を送ってきて……だから、こうして越前に向かう途中で寄ることにしたのだが……
「おまえ様……何も会った途端に泣き出さなくても、大御所様もおられるのですよ?」
「だって……おまえ、俺の事ほったらかしで全然会うことができないじゃないか。この若狭には、夜な夜な上杉殿と密会していると噂が聞こえてくるし……俺捨てられたのかと」
訂正。泣いているのは、浮気を疑った結果のようだ。確かに謙信公とは、幾度となく夜を共に過ごしたが、それ以前に彼女が女であることをわたしは政元様に伝える。だから、そのような怪しい関係にはなっていないと。
「だいたい、謙信公と怪しい関係になったのは、わたしではなくて殿の方ですよ……」
「「えっ!?」」
旅の疲れと浮気を疑われた精神的な消耗からか。ついそう口走ってしまったが、これは言ってはいけないことだったとわたしは気づいた。しかも、この場には義昭公もいる……。
「寧々殿……それって、もし子供などできたら、まずい展開なのでは?」
「え?えぇ……と」
「寧々、このことはお市様には……?」
「言えるわけないでしょ!そんなことになったら、上杉家よりも先にうちが凄惨なお家騒動に突入するわ!」
血まみれになったお市様が長政様の生首を掴んでニタリと笑う。……以前の猿夜叉丸様ではないが、おねしょしてもおかしくない程の恐怖だ。
「で、でも、謙信公は越後だし、きっとあれは1回限りの行きずりの関係。だから、そう容易く子供などできたりは……」
油断は禁物だが、そんなにポンポン子供ができたら、前世のわたしはあんなに苦労したりはしない。そう……だから大丈夫なのだと、わたしは自分で自分を言い聞かせる。そして、義昭公も政元様もこの話題にこれ以上触れることはなかった。
「と、ところで、おまえ様、よく考えたら、大御所様へのご挨拶がまだなのでは?」
「あ……これは誠に申し訳ございません。若狭国主・浅井右近中将政元にございます。ご覧いただいた通り、寧々の夫にございます!」
「これはご丁寧な挨拶、かたじけない。義昭である。大御所とはいえ、実がない前時代の隠居だ。だからそのように身構えなくても大丈夫だ。……それに、俺は寧々殿とはそのような関係になろうとは考えていないから」
うかつなことをしたらまたアレに徳利をかぶせられるからと、義昭公がおどけたように笑うと、政元様もようやく表情を緩められてお笑いになられた。ちなみに、政元様の官位は、つい先日、正四位下右近衛権中将に昇進されている。
だが、そうしていると、部屋の間口にここにいるはずのない莉々の姿が見えた。
「あれ?父上、誰か来られて……って、ゲっ!!」
「莉々?えっ!?どうして、何であんたがここにいるの?しかも、『ゲっ!!』って何?母親に向かって何なの、その態度は!!」
「い、いやぁ……その……すみません、父上。莉々は、急な用事を思い出しました。これにて失礼いたします」
如何にも気まずそうに顔を引きつらせて、踵を反転させて立ち去ろうとする莉々。もちろん、簡単に逃走を許すほどわたしは甘くはない。先日と同様に、打掛の内側に潜ませていたクナイを莉々の足物目掛けて投擲した。
「な、なに……また新しい技を覚えてきたのですか?クナイって、今度は忍びに……?」
「ふふふ、信長様お抱えの女忍びにちょっと教えてもらったのよ。それで、莉々。どうしてあなたがここにいるのか。わたしを鬼ババア呼ばわしたのか。……ちょっとそこに座って、教えてくれるかしら?もちろん、正座で……」
反論は認めない。莉々はそれでも政元様に助けを求めるように視線を送っていたが、どうやらそれも叶わず、ついに諦めてわたしの前に正座するのだった。
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