第296話 寧々さん、見てはならないものを見てしまう

天正元年(1573年)5月下旬 京・東寺 寧々


信玄公ら武田の一行が出立した次の日、わたしは長政様と共に謙信公との面会に臨んでいた。理由は、以前聞かされていた両家の境界線を正式に取り決めるためだ。


「我ら上杉は、越中までで構わぬ。それは、寧々には伝えておったのだが……」


「承知しております。我らに異存はございません」


「ならば、交渉は成立だ。今後も両家の付き合いが円満に続くことを願っている」


しかし、協議はこのようにあっという間に終わってしまい、あとは酒宴となる。


但し……わたしは緊張していた。謙信公ら上杉の一行は、明日京を出立するため、今日の酒宴はこれまでご教授いただいていた『酒道』が正しく身についているのかを判定する試験と聞いている。


そして、不合格ならば……先日の酒宴における失敗もあり、わたしは今後、一滴の酒も口にしてはならないとお師匠様(謙信公)から言い渡されることになるのだ。


「さて、始めるとするかのう」


謙信公がそう言って手を二度叩かれると、侍女たちが現れて酒膳を目の前に置いた。試験とはいうものの、この場にいる他の方は普通の酒宴なので、先日と同じように上杉家の家臣や長政様のお供をしている浅井の家臣たちがわたしの杯に言葉を交わしながら酒を注いてくる。


その中には、あのときの弥八郎と同じく、調子を狂わす存在もいる。その筆頭が半兵衛だ。


「寧々様。最後のお酒です。思い残すことがないよう、味わってください」


「何よ……まだ決まったわけじゃないでしょ?」


「いや、決まっているのですよ。某という天才がそう言うのですから、間違いありません!」


思わず、注いでくれた酒を顔に引っかけてやろうかと思うほどムカついたが、それも酒の上の不始末になるので我慢する。ただ、やられっ放しでは癪に障るのでわたしも半兵衛の嫌がりそうな話をしてやることにする。例えば……「子供はまだかしら?」などと。


「それは、仕方ないでしょう。稲は自由人。それを承知の上で妻としているのですから」


ちなみに、そのお稲殿だが、「最後までできる限りの事はやっておきたい」と言って、信玄公に付いて行ってしまった。ため息交じりで答えた半兵衛の心を思うと、酔いがさめたような気がして、気がつけば配分をまた誤り、予定よりも酒が進んでしまった。


(いけない……このままだと、前と同じ結果になるわ!)


そこで、わたしは少し外の風にあたることにした。席を立つこと自体は認められているし、謙信公から学んだ技法にもこの手段はあるから問題ないと思って。


そして、厠へ向かう体で、屋敷の中を少しだけ遠回りで歩いていく。これで少し酔いを醒まして、調子を取り戻す。そんなつもりだった。しかし……


「あ……あん!そのように激しく動かれたらわたしは……」


「でも、気持ちいいんだろ?しかし、初めてではなかったのだな……」


「ま、まあ……わたしだって、こういうのは嫌いじゃないから、時折小姓と……」


「それは……妬けるな。どうやら、そんな悪い女にはお仕置きが必要なようだ」


「だ、だめぇ!そ、そんなに激しくされたらもう……」


……そのような男女が睦み合う声が聞こえて、わたしはこっそりその出処の部屋を覗いてみる。


すると、どういう成り行きでそうなったのかはわからないが、部屋の中には長政様と謙信公が居て、そういうことをしているのが見えた。当然だが、驚きが強烈過ぎて……酔いなど一気に覚めてしまった。


(ど、どうしよう……まさに、家政婦は見たって感じかしら?)


ただ、いつまでもここにいることだけは不味いような気がして、わたしはそろりと後ずさりした。そして、運よくそのままバレずに酒宴の席に戻ることができ、その後も酒を注がれるままに呑み続けたのだが、流石にこうなっては酔うことなどできない。


「ほう……某の予想を覆して合格するとは。寧々様、やりましたね」


だから、半兵衛にそう褒められても素直に喜ぶことができなかった。それにしても、もし子供ができたらどうするのだろう……。

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