第295話 寧々さん、死出の旅路に向かう信玄公を送る
天正元年(1573年)5月下旬 京・本国寺 寧々
勘九郎様——いえ、信忠公が征夷大将軍に就任されて、元号も改元されて、ようやく忙しい日々から少しだけ解放されたわたしは、信玄公のお見舞いのため、宿所である本国寺を訪ねた。お稲殿の話だと、今の研究段階では、これ以上の治療が困難で余命は幾ばくも無いらしい。
ただ、だからこそ、武田の方々は慌ただしく帰国の準備を行っていた。何としても、最期は故郷で過ごしたいという信玄公の意向を汲んで……。
「わざわざ、済まぬな。寧々殿」
ただ、今のところは、容体は安定しているようで、こうして普通に平服で応接間にお出ましになり、わたしと相対した。
「ご無沙汰しております。それでお加減は?」
「まあ……見ての通り、今のところは大丈夫のようだが、お稲殿が申すには甲斐は遠いから騎乗して帰国するようなら、途中で死ぬらしい。それで、輿ならばと今、用意しているところだ」
「ならば、海路で帰られては?伊勢まで出て、そこから船で駿河まで帰れば、体へのご負担も減るかと……」
「しかし、今から駿河に使いを走らせて、我が水軍が伊勢に来るには時間がかかるであろう。その間に儂は死ぬかもしれぬぞ?」
「何を仰せですか。武田様は天下の副将軍なのですよ?それくらい、上様にお頼みして用意してもらえばいいのですよ」
ここでいう「上様」とは、信長様の事である。将軍は信忠様なので、少し呼称がおかしいような気がするが、親子でじっくりお話し合いになられて決められたそうで、信忠様の方は「大樹様」と呼ばれている。
「……なるほどのう。流石は、天下の尼将軍だ。よくぞ気づいてくれた」
「よしてくださいよ。大体、わたしは尼じゃないし、大樹様の母親でもないし……」
先の公方様——義昭公が将軍職を辞するにあたって、わたしも『春日局』の名号を返上した。義昭公からは責任を感じる必要はないと言われたし、更に畏れ多き事に主上からも慰留されたが、これはわたしなりの「けじめ」として押し通した。
「何でも、『東郷局』と名乗るそうだな。ありふれた名のようで、重みがない様に思えるのだが……」
「だからこそ、良いのですよ。先程のお話ではありませんが、公方様も代わられたことですし、これから先、尼将軍呼ばわりはされたくないので」
ちなみに、『東郷』の名の由来は、前世で隠居所だった高台院が東山の郷にあったことにちなんでいる。まあ、その辺りは本当に何でもよかったので、どうでもいい話ではあるが。
「そうはいうが、遠き未来でそなたのように狙撃が上手い暗殺者が、その名を名乗るやもしれぬぞ。いいのか?」
「良いも悪いも……そんなわたしが死んだ後の話のことなんて、なおの事どうでもよろしいですわ。使いたければ、使えばいいし!」
ホント、死んだ後の事などどうでもいい話だ。
「どうでもいい話か。くくく、儂にとってはそうではなかったが……」
「それは例えが違うかと。武田様とて、風林火山の旗を後でどのように使われても別に構わないでしょ?」
「そういえば……そなたに勝手に使われたのだったな……」
信玄公は懐かしそうな眼をして、お笑いになられた。だから、わたしは悟る。これが最後の面会になるのだと。
「畏れながら……ご満足して旅立たれそうですか?」
「ああ……寧々殿のおかげでな。これで、あちらで待つ妻や倅に良き報告ができる……」
そのお顔には、一点の曇りも見当たらない。ならば、これ以上わたしが何かを言うのは無粋というものだろう。静かに頭を下げて……信玄公に別れを告げたのだった。
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