第293話 勘九郎様は、去りゆく公方様と語らう

元亀4年(1573年)4月上旬 京・二条御所 織田信忠


「叔母上……お止めください。皆が見ておりますゆえ……」


「いいじゃない、猿夜叉丸様♪いつも頑張っていて偉いねぇ。良い子、良い子」


「だから、もう猿夜叉丸じゃないって……」


……いつものように酔っ払った寧々殿が新九郎殿を膝の上に乗せて、頭をなでながら甘やかしている。まあ、前のように胸元をはだけて、変な踊りをされるよりはマシだろう。あれは、目のやり場に困った。


「……そうは申しても、お主、キッチリ見ておったではないか。寧々殿のおっぱいを」


「これは……上様」


「よい。そなたとは、これより親子になるのだ。そう堅苦しい真似はよしてくれ」


「はあ……」


そして、俺は義父となる義昭公より、杯を賜る。……とはいっても、寧々殿ほど強くはないので、程々にだが。


「しかし、そなたもスケベよのう。先程申した寧々殿の事と言い……今日も松姫の顔をジロジロ見ては鼻を伸ばして……ムッツリか?」


「む、ムッツリ……」


そんなことはないと思いたいが、傍から見ればそうなのかもしれないと思い、俺は反省した。しかし、どうしたことだろう。義昭公は急に笑い出した。「そんなに深刻に考えなくても良いだろう」とか言って。


「まあ、真面目なことは良いことだとは思うが、今からそれでは先が持たんぞ」


「はあ……」


俺は何とも言えなくなって、杯を空にする。すると、すぐに義昭公はまた酒を注いできた。


「兎に角、焦らないことだ。将軍になっても、しばらくは宰相が実権を握るから、そなたとしては面白うないかもしれぬ。だが、そこで変に『俺は将軍なのに』などと真面目に考えるなよ?そのようなことをすれば、折角先が見えてきた天下泰平も全て夢幻となろうから」


これは、義昭公からの真面目な忠告だろう。そう……俺は受け止めて、杯を空にする。そして、今度は俺の方から義昭公の杯に酒を注いだ。


「しかし……焦らないようには、どのようにすればよろしいのでしょうか?」


父上は偉大なお方だ。実権がないお飾りの将軍と思うだけでなく、頑張っても頑張っても遠く及ばないような気がして、本当に自分がその跡を継げるのかと不安に駆られることもあるのだ。


ただ、そんな俺に義昭公は答える。「何も同じように生きる必要などあるまい」と。


「そなたは、そなたの天下を宰相の後の時代で作ればよいと俺は思う。無論、そのようなことを今申しても、思いつかぬだろうが……ならば、そなたはまずその準備をすることだ」


「準備を……ですか」


「幸いなことに、まだまだ宰相は元気そうだから、時間はあると思う。その間に多くの賢臣を集めて議論し、自分の道を模索するのだ。さすれば、自ずと道は開けよう」


「御助言、感謝いたします」


俺は心より感じ入って、義昭公に頭を下げた。それにしても、これほど立派な考えをお持ちだというのに、将軍職を最後まで全うできないとは……不思議なものである。


だから、不躾な質問だとは理解しながらも、思い切って聞いてみることにした。「後悔されているのですか」と。


「後悔か……」


「あ……いや、大変失礼な事を聞きました。お忘れください」


義昭公の顔が歪まれたので、流石にこれはまずかったと思い、俺は質問を引っ込めて謝罪の言葉を口にした。しかし、義昭公は「よい、気にするな」と申されて、真面目に回答を告げてくれた。


「俺が失敗したのは……将軍職を全うできなかったのは、頼るべき相手を見つけるのが遅れたことであろうな。それでも、見つけられたからこそ、最悪な末路にはならなかったが……」


そう言いながら、義昭公は寧々殿の姿を見た。あちらはあちらで、浅井の叔父上に「やっぱり大丈夫じゃなかったじゃないか!」と杯を取り上げられて、わんわん泣いているが……


「最初に小谷城で会った時に、お尻なんか触らず真面目に教えを乞うておれば、宰相とも協調してもっとよき幕府を作れたはずだ。後悔があるとすればそこかな」


そして、俺には「そんなことにならぬように」と言い残して、席を立たれた。少し酔ったので、風に当って来ると言って。そんな後姿を感謝の気持ちを抱きながら、俺は義父を……静かに見送るのだった。

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