第291話 寧々さん、禅譲を前にけじめをつけると決意する

元亀4年(1573年)4月上旬 京・二条御所 寧々


今、甲斐から到着した松姫様が義昭公と対面されている。


こうして、横からでしかお顔を見ることはできないが、中々の美少女と言っていいだろう。わたしの対面に座っている勘九郎様も、さっきから鼻の下を伸ばしては、都度、隣に座る信長様から小突かれていた。


「武田殿。そなたの娘・松殿を我が娘に迎えたい。承知して頂けるか?」


「もちろんにございます。何卒、良しなにお取り計らいの程を」


だが、暇だからと……そんなことを思っているうちに、義昭公が松姫様の隣に座られている信玄公と予定通りのやり取りをして、今日の儀式はこれでお仕舞いとなった。あとは、祝宴が催される手筈となっている。無論、お酒付きで。


「寧々殿……わかっていると思うが、酒は程々にな。この場に半兵衛がいなくても、本能寺にはいるのだから、その事を忘れずに……」


そして、楽しみが顔に出てしまったようで、婚礼に出席するために昨日到着したばかりの長政様に、わたしは注意されることになった。どうやら、こちらで色々やらかしたことをお耳にされたようで、心の底から心配しているようだ。


しかし、この日に備えて、わたしの方も準備万端だ。謙信公のご指導のおかげで以前よりずっと強くなり、今や2升までであれば酒に飲まれず意識を保つことができるようになったのだ。これならば、新たな不祥事を恐れることはないだろう。


「……本当か?本当に信じていいのだな?」


だから、こうしてまだ半信半疑の長政様に、わたしは力強く「大丈夫です!」と返した。無論、そう容易く信じてはくれないようだが、これ以上この話題を続けてもきっと水掛け論になるだけだろう。長政様もそれ以上のことは申されなかった。


「……ところで、寧々殿。話は変わるが、上様は本当に将軍職の譲位をご決断されたのだな?」


「ええ。婚礼の場にて、その事を意思表明なされて、来月吉日を選んで勘九郎様に将軍宣下が下る手筈に」


結局、北山への遠乗りから3日ほどして、いかにも交渉しましたという体で報告申し上げたわたしに、義昭公は何も言わずに全てを受け入れてくださったのだ。将軍職を婿となる勘九郎様に譲ることも含めて。


「そうか。いよいよ、織田幕府が誕生するのだな……」


それゆえに、長政様が呟かれたとおり、もうすぐ織田幕府は誕生するのだ。今の所の勢力圏は、東は越後・上野・甲斐・信濃、西は若狭・山城・摂津と、全国66か国のうち、24か国にも及び、これまでの脆弱な足利氏の幕府とは全く異なる強力な政権だ。


そして、その新政権の中で、浅井家は武田や上杉と並んで『副将軍』に任じられる手筈となっている。非常時を除いて政権運営に口出しをすることは認められていないが、名誉を何よりも大切になされる長政様とすれば、大いに満足されている御様子だ。


官位も副将軍に相応しきものにということで、幕府が誕生したら、従三位権中納言に昇叙することが決まっている。


「俺が中納言か……。今一つ、実感がわかないな。しかも、勘九郎様と同じ位階だろ?いいのかな……」


その勘九郎様は、婚礼と同時に足利将軍家の世子が任じられる左馬頭に任じられて、将軍宣下の際に従三位参議兼左中将に昇叙する予定となっている。そのため、長政様は気にされているが、これは一時の事。


来年には信長様が内大臣にお就きになるそうなので、きっとその時にまた昇叙することになるだろう。第一、信玄公と謙信公は、正三位権大納言に任じられるのだ。それより下の長政様が心配する必要は全くなかったりする。


「まあ、くれるというものは貰っておいた方がよろしいかと。あって損なものではありませんし……」


ちなみに、皆さんが高い官位を貰う中で、わたしにも、正三位の内示が出ている。義昭公を説得して、平和裏に政権交代を実現した功績をたたえての事らしい。だが、その事で一つだけ決めていることがある。


「なに?春日局の名号を返上すると?」


何しろ、わたしは義昭公の『心の母親』になることを期待されて、この名号を賜ったのだ。任を全うできなかった以上は、ご辞退申し上げるというのが筋というものだろう。そして、それがわたしなりのけじめのつけ方だ。

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