第290話 腹黒狸は、理由不明な怨恨に頭を悩ます

元亀4年(1573年)3月下旬 遠江国浜松城 徳川家康


開いた書状には、4月20日に京の二条御所において、将軍家の養女となった武田の松姫と信長公の嫡男・勘九郎殿との婚礼があるので、儂にも上洛して加わるようにと書かれてあった。しかし、そのことを口に出した途端……


「殿っ!承服してはなりませんぞ!これでは、我が徳川が織田の家臣になったと誤解を与えてしまいます。どうぞ、お断りくださいませ!」


「左様。まさに、平八郎殿の言うとおり!誰か行かねばならぬのであれば、代理を立てればよろしいかと。何でしたら……鳥居殿でも」


「えっ!?儂?」


まずは若い本多平八郎と榊原小平太が声を大にして反対し、鳥居彦右衛門が「そんなのいやでござる」と断り、それに大方の家臣たちが迎合する。そのため、この評議の場は『欠席』の決断を儂に迫る雰囲気となる。


だが、先程この書状を持参した佐久間殿からは、「ここだけの話」ということで、此度の婚礼には倅・信康が別に招待されているということだった。しかも、背後には『尼将軍』の再来と評判の春日局が我が家の離間を謀っているとかで……。


それゆえに、皆には悪いが、儂の心は既に『出席』で決まっている。これからの徳川の事を考えれば、それが最善だと思うゆえに。だから、ここで嫌われ役を投入することにした。


「畏れながら……どなた様も、現実というものが見えておられませんな」


「なに!?弥八郎!」


「貴様……たかが鷹匠の分際で……」


こうして、儂の目配せで弥八郎が皆を煽り、自然と視線が奴に向かう。すると、おどけた顔で頭をかきながら、その意図を口にし始めた。


「京では、武田も上杉も居て、皆、宰相様に従う意向を示されているとか。それで、小平太殿。家臣ではないと今、貴殿は申されたが……家臣でなければ、我が徳川は織田にとってどういう存在で?」


「はん!決まっておろう!同盟国だ。鷹匠、やはりそなたは学がないのう。そんなことも知らぬとは……」


同盟国か。それは共闘して倒す相手がいてこそ意味があるものだと、この会の前に弥八郎から説かれた。それゆえに、武田が織田に恭順する以上は、もはや自然解消も同然であると。


そして、同じことを弥八郎は皆に説いた。それでもなお、小平太や平八郎は言い募ろうとするが、大久保七郎右衛門が「一理ある」と同意して、二人は収まる。そうなれば、他の者たちも一様に口を噤み、先程までとは一転、『出席容認』の雰囲気が出来上がった。


儂はそれを見て、ようやく「上洛する」と皆に宣言した。


「供は、本多平八郎、榊原小平太、本多弥八郎……あと、岡崎の信康を連れて行く」


「若君をですか?」


「ああ、そうだ。何しろ、あやつは宰相様の婿であり、勘九郎様の義弟。連れて行かぬわけには参るまい。彦右衛門、悪いが岡崎に使いに行ってくれ」


本当は、直接岡崎に招請の使者が行っているはずなのだが、敢えてこの場では言わないし、表向きは儂の供として参加するようにしておく。そうしなければ、春日局の思惑通りに我が徳川家は二分されてしまうからだ。


(本当に腹ただしいな。儂が何をしたというのだ……)


春日局——。尾張守護だった斯波家の姫で、若狭国主浅井大蔵大輔の妻。一度も会ったこともないというのに、佐久間殿の話では相当儂を恨んでおるとか。全くもって、理解不能だ。


「殿……」


「おお、すまぬ。話が中断してしまったな。それで、留守は七郎右衛門……そなたに任せようと思う」


「承知いたしました」


「出立は、4月1日とする。但し、弥八郎。そなたは明日にでも立ち、先に京に入れ。茶屋と談合して、祝いの品を揃えるのだ」


「畏まりました」


本当は、京の状勢を把握させるために先行させるのだが、それもこの場では言わない。言わないことばかりだなと内心で苦笑いを浮かべて、儂は待たせてある佐久間殿に回答を伝えるために、席を立ったのだった。

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