第287話 寧々さん、幕府に止めを刺す(前編)

元亀4年(1573年)3月上旬 京・二条御所 寧々


松姫様が義昭公の養女となった上で勘九郎様の元に嫁ぐという話を耳にして、わたしは謙信公と共に二条御所を訪れた。もちろん……これより切り出す用件とは、将軍職を織田家へ禅譲するよう説得することであった。


「まずはお祝いの言葉を述べて、それから雑談をしてから本題に入るのね?」


「寧々よ。そのように緊張しなくても良いと思うぞ。わたしもいることだし……」


「でも……」


謙信公はそう言ってわたしの気持ちを落ち着かそうとするが、それでもこの説得が失敗に終われば、義昭公は勘九郎様と松姫様の婚礼の後、俄かに腹痛を催されて、そのまま帰らぬ人となる手筈まで整えられているのだ。ゆえに、緊張するなというのは無理な話だ。実に胃が痛い。


しかし、そうしていると……


「寧々殿。それに上杉殿も良く来られた」


噂をしていた義昭公がこの広間に姿を現した。但し……そのお姿は、今から鷹狩に出るような装いだった。


「あの……もしかして、出かけようとされていましたか?それなら日を改めて……」


「それはよい。そもそもの話、そなたらが来ると聞いてこのような格好をすることにしたのだ。どうだ?これより少し遠出をしようと思うが、二人とも付き合ってはくれぬか?」


そう言われて、わたしは謙信公を見た。勝手にお受けする返事をしたら、叱られると思って。だが、その謙信公はというと静かに頷かれた。


「承知しました。喜んでお供させていただきましょう」


謙信公の同意を得たということでそうお返事をすると、義昭公は部屋の外に控えていた侍女二人に命じて、わたしと謙信公は着替えの間に案内されることになった。そして、動きやすい格好に着替えた後、今度は馬小屋に連れて行かれた。


そこには当然だが、義昭公がおられた。但し、それよりもわたしの目は、その前に繋がれている漆黒の色をした馬に釘付けとなった。


「ん?この馬が気になられるか?」


「はい。本当に見事な馬だと思いまして……」


その艶やかな毛並みもさることながら、とても筋肉質で他の馬と比べたらひと際大きいように見える。慶次郎の松風も見事な馬だが、こちらも負けず劣らず王者の風格が漂っている。


「黒王というのだ。先に来た大友より献上されたのだが、元は南蛮人が異国より連れてきたそうだ」


「異国……ですか」


その響きに何だかわからない感覚を覚えて、できれば、少しだけでも触らせて貰えたらと思っていると、義昭公は予想もつかぬことを言い出した。「それなら、この黒王を寧々殿に進呈しよう」と。


「よろしいのですか!?」


「ああ」


「後で返してくれとか言いませんよね?」


「後で返してくれと言っても、返してはくれぬだろう?死んだ摂津から聞いたが、亡き兄上から刀を借りたまま返さずにいるとか。そういえば、我が父上の眼鏡も……」


「か、刀は、あれは頂戴した物ですわ!摂津が勘違いしていただけでしょう。お歳だったし、そ、そういうこともあるわよね!?あと、眼鏡の事は済みません。科学の発展のためには、犠牲が付き物だと思って、諦めてください……」


嘘ではない。刀の事は天海となったのちに、慶次郎と話はついているのだ。眼鏡については、壊れたので返しようがないから、詫びるしかないが……。


「それで、本当にその馬……黒王を頂けるので?」


「もちろん、俺は将軍だ。二言はない。そして、早速だが……この馬に乗ってこれから供をしてくれぬか?」


義昭公は、どこか寂しそうに笑みを浮かべて、わたしにそう告げた。ただ、その様子からすると、何かしらの意図を感じた。それは、謙信公も気づいたようで……


「畏れながら、どちらに向かわれるおつもりで?」


……と慎重に訊ねられた。すると、義昭公は力なく一言、「北山」と言われた。

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