第283話 甲斐の虎は、死後の事に思いを馳せて
元亀4年(1573年)2月下旬 京・本国寺 武田信玄
ゴホ……
やはり、儂はもうすぐ死ぬのか。口元にあてた懐紙を染めた赤い血を見て、お稲殿の言葉を反芻する。
『薬がどうやら効かなくなっているみたいだ。唾に含まれている労咳の菌また増え始めているからね。残念ながら、ここまでのようだ……』
そして、告げられた余命は、長くても半年から1年。それも、今後無理をしないことの条件付きだ。誠に持って無念極まりない。
「父上?如何なさいましたか。そろそろ、半兵衛殿が参られますが」
だが、無理をしないわけにはいかないので、その余命もどんどん短くなるのだろう。儂は四郎の呼びかけに「大事ない」と答えて、厠から出た。今となっては、目の前にいる息子が滅びることなく、武田家を次代に受け継ぐことができるように道筋をつけるのが何より最優先だ。
広間に入ると、恭しく頭を下げている今孔明と名高き男の姿を確認した。
「待たせたな、半兵衛」
「右中将様にはご機嫌麗しく……」
そうだ。今の儂は正四位下右中将だ。息子の四郎も義昭公より片諱を賜り、今は名を『義頼』と改めて、更に、願い通りに従五位下甲斐守にも任じられている。全てが無念というわけではないな……。
「右中将様?」
「ああ……すまぬな、半兵衛。それで用件とは、三淵・摂津が居なくなったから、我が娘松を上様の養女とすることを願い出るのであったな……」
「御意にございます」
そして……義昭公の養女となった松は織田家の嫡男・勘九郎の妻となり、その縁を理由に将軍職を禅譲される運びとするか。誠に恐ろしいことを考えるものだと感心するが、実現できれば、義頼は新将軍の義兄だ。我が武田としては申し分ない。
「しかし、半兵衛。そうはいっても、誠に上様はお受けなされてくれるのかな?」
但し、これが絵に描いた餅というのであれば、話は変わってくる。儂は念押しするようにその辺りは大丈夫なのかと半兵衛に確認した。すると、すでに幕臣たちには根回しをしており、例え上様が反対されたとしても、説得できる算段はつけているという。
それならば、きっと大丈夫であろう。そう思って、儂は次の話題に話をうつした。それは、織田幕府成立後の我が武田の立ち位置についてだ。もうすぐ死ぬ身としては、その辺りをしっかりと聞いておきたかった。
「御心配には及びません。事が成就した暁には、四郎様は公方様の義兄。粗略に扱われるはずがございません」
「だが、実権が勘九郎殿に移るには、しばらく時がかかるだろう。宰相様はまだまだご壮健のようだからな」
「何を仰せられたいので?武田と織田は、勘九郎様と松姫様の事だけでなく、柴田殿と秋山殿の一件でも結びついたはずではないですか」
それなのにまだ疑うのかと半兵衛は申してくるが、儂が信長の立場であれば、必要となればそのような縁など関係なく手を打つだろう。それに懸念はもう一つ。幼馴染と聞く徳川三河守の存在だ。
「徳川は、我らに駿河を押さえられている故、これ以上大きくなることはできん。ゆえに、儂が奴の立場ならば……必ず、武田を罠に嵌めてくるはずだ。その時宰相様は、どちらの味方をされると思うか?」
「なるほど……徳川様と四郎様となれば、宰相様なら徳川様を選ぶやもしれませんね……」
しかし、そんなことになれば、我が武田は一転して滅亡への坂道を転がり始めることになるだろう。この上洛で、織田の力を存分に見せつけられた今となっては、わずかでも勝てるとは思っていない。
「それで、武田様は何をお求めになるのですか?」
「新政権における特別な立ち位置だ」
「特別な立ち位置……ですか?」
具体的には何も思いついてはいないが、半兵衛ならばきっと良き考えが浮かぶだろうと思って、儂は託すことにした。これさえ成れば、いよいよ思い残すことはない。
ゴホ、ゴホ……ゴホ!!
「父上!?大丈夫ですか、父上!」
懐紙で抑えようとしたが間に合わず、儂は盛大に畳の上に血を吐いた。ああ、せめてあと3年、我が寿命が残っていれば……。
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