第281話 寧々さん、酒道は一日にしてならずと思い知る

元亀4年(1573年)2月下旬 京・東寺 寧々


これで9合目。なみなみと器に酒がまた注がれて、わたしはぐびぐびとそれの喉に流し込む。


「ぷはー!」


やはり、お酒は美味しい。……が、謙信公の試験が間髪入れずに始まる。指を立ててそれが何本に見えるかということだが……


「う~ん、8本?」


「ふむ……視覚的な限界は前回よりも伸びたが、ここまでか。それでどうだ?武田は最後どのようにして滅ぶ?」


「そ、それは……」


「ほう……まだ、酩酊状態には程遠いか。3日前はこの辺りで伊勢(後北条氏)の末路を教えてくれたが、少しは成長したようだな。お船、次を注いでやれ」


「はい、畏まりました」


……というやり取りの後にまた器になみなみと酒が注がれて、わたしはそれを飲み干して、先程の質問を繰り返しされた。結局この日は、1升と2合目で口が軽くなり始め、次の3合目で自白。さらには、1升と7合目で意識が混濁し、2升目には眠りこけて頭から水をかぶせられた。


「つ、つめた……い」


「目が覚めたか、寧々。お船が湯を用意しているから、それをかぶって着替えたら戻って参れ。今日の成果の確認はそれからだ」


「はい……」


桜はもうすぐ咲こうとしているが、水をかぶって平気でいられるほどまだ暖かくはなく、わたしはフラフラ体を揺らしながらも、謙信公に言われた通りに湯殿に向かった。ただ、風呂に入るとそのまま溺れる恐れがあるということで、たらいに入った湯を体にかけて、あとは手拭いで拭くにとどめる。


そして、そのあとは縁側で夜風に当りながら、酔いを醒ましつつ、今日の反省会だ。丁度、桜も咲きかけているので、風流と言えば風流。歌を詠んでもいいのかもしれない。


とまあ……こんな感じで、わたしは謀略に勤しむ半兵衛の目を盗んでは、こうして謙信公の下で酒道を極めんと修行の日々を送っていた。もちろん、これも浅井家の嫁として、お家の名誉をこれ以上傷つけないためだ。決して、遊びではない……。


「寧々様……お顔が御緩みですよ?」


そう……お船殿はそう言ってきたが、気のせいだ。わたしは至って真面目に取り組んでいる。


「それでどうなのですか?わたしも先生のように酒道の達人になれるのでしょうか?」


「そうだな……この調子であと10年程だな」


「10年?」


「この後10年、わたしの指導の下で精進すれば、我が上杉家秘伝の『憲政流酒道』の伝書を与えることができるだろう。それだけ、そなたの内には酒飲みとしての才能が溢れておる……」


「本当ですか!」


「但し……それまで、わたしの寿命が保てばの話だ……」


そのお言葉を聞いて、わたしは何とも言えなくなる。謙信公が身罷られるのは5年後、天正6年(1578年)の春のことだからだ。まあ、国を潰すほど酒に溺れた前の関東管領様が生み出した流派の伝書などはどうでもよいが、酒のみ友達を失うと思うと、なんだか寂しくもなる。


「あぁ……その、なんだ。わたしが言っておいてあれだが、そんなにしんみりするな。織田宰相殿ではないが、人間はいつか死ぬのだ。気にしても仕方ないぞ?」


「だって……そうはいっても……」


まだお酒が残っているのだろう。何だか涙もろくなって、自然と頬を暖かいものが伝った。


「そう言えば……」


だが、そんなわたしを見て、きっと居心地が悪くなったのだろう。謙信公は不意に話題を変えるようにして、お船殿に話を振った。お訊ねになられたのは、未来の旦那様である与六殿とその後、上手く行っているかということだった。


「それでどうなのだ?何だったら、藤九郎を飛ばして、そのまま祝言を挙げさせてやっても良いのだぞ?」


長尾藤九郎……前世では、この後お船殿の婿となり、直江与兵衛尉信綱と名乗られたお方だ。但し、早世する運命にある方なので、この方と一緒になられることだけはお勧めできない。謙信公も同意見のようだ。


そして、お船殿も不幸になるのが分かっていて、藤九郎殿と一緒になるつもりは毛頭ないとのことだが……


「申し訳ありませんが……与六はあり得ませんね。わたしは弱い男は嫌いですので」


だからといって、与六殿と一緒になりたいとは今のところ思っていないらしい。その回答に、わたしと謙信公は「どうしたらいいのかしら」と庭の桜を眺めながら、酔い覚ましを兼ねて意見交換を行うのだった。

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