第274話 お手紙公方は、弟に諭される

元亀4年(1573年)2月中旬 京・二条御所 足利義昭


織田信長が従三位に叙せられ、参議に任じられる——。


この知らせが内裏からこの御所に齎せるや、広間には大勢の幕臣たちが呼びもしないのに勝手に集まり、喧々諤々、非難に非難を重ねて、織田弾正忠……いや、これよりは織田宰相と呼んだ方が良いか。まあ……とにかく、その宰相を皆が罵り合っていた。


特にその急先鋒は摂津中務大輔で、「これは幕府への明らかな反逆。全国の諸大名に早速織田信長追討令を出すべきかと!」……などと言っては、周りの幕臣たちの支持を集めて、得意げになっている始末である。


但し……俺は思う。こんなただの罵り合いの果てに、建設的な意見の一つでも出るのだろうかと。


「しかも、これは内々に聞いた話だが、来月の初めには右大将に推挙されるそうだ」


「なに!?」


「馬鹿な!右大将は、上様がお就きになる官職ではないか!朝廷は何を考えている!」


何を考えているか……か。そういえば、このところ二条様とは疎遠になっているなと、今更ながら気が付いた。なるほど、どうやら殿下は俺を見限ったようだ。ならば、このようなことになっても、特段不思議ではないと……口にはしないけど、理解はした。


「上様、どちらに?」


「少し気持ちを落ち着かせてくる。皆は引き続き、対応を協議するように」


「畏まりました」


議論……いや、単なる悪口大会が白熱していることに嫌気がさして、俺は近くにいた三淵にだけそう告げて、廊下を自室に向かって歩き出した。


途中、庭に梅の花が咲いているのが見えたが、頭の中にあるのは「これからどうしたらいいのだろうか」ということばかりで、本来の目的である気分転換には程遠かった。


しかし、その終着点には、人が座っていた。誰だろうと思って中に入ると……


「周暠か。今日は如何した」


それは、相国寺で坊主をしている弟であった。


「兄上……今日は足利家の子として、弟として、お話があって参りました」


「そうか。そなたも織田のことを怒っておるのだな。まあ……そなたが言うまでもなく、幕臣たちは今、それで盛り上がっており……」


「いえ、わたくしが言いたかったのは、その真逆でございます」


「真逆?」


それは一体何だろう。そう思っていると、周暠は切り出してきた。すでに足利は力を失って久しく、この上は最後の将軍として、潔い後始末をなさるべきではないかと。


「それは……俺に、幕府を畳めということか?」


「はい」


流石にそれは、腹ただしく思った。何もこちらの苦労を知らないくせに、お経ばかり読んでいる坊主が何を抜かすのかと。


「おいおい……何を突拍子もないことを……。そのような話、広間の連中に聞かれたら、おまえ、ただでは済まぬぞ?」


「ですが、兄上。これ以上、この幕府を続けて一体何ができるというのですか?悲願であられた五大老会議もあっさり潰されてしまったと耳にしましたぞ」


「そうだな……おまえの言うとおり、あれは潰されてしまった。しかしだ。俺の治世はまだ始まったばかりではないか!諦めるのはまだ早いし、諦めたらそこで終わりだ!……違うか?」


「違うも何も、兄上と幕府がやっていることって、『違う』ことばかりではありませんか。誰のおかげで将軍になられました?織田殿のおかげですよね?それなのに、力を削ごうと見限られることばかりやって……一体何がしたいのですか?」


何がしたいか……か。俺は掛け値なしに、『戦ではなく、話し合いによって揉め事を解決する政』を実現したかった。ただ、それは既に頓挫してしまった。それゆえに、今の俺に何がしたいのか……と訊かれても、答えようがない。


すると、周暠はため息を一つ吐いて、少し迷いを見せつつも、口を開いた。


「兄上……実は、幕臣どもから口を閉ざすように言われてはおるのですが……」


「ん?」


「光源院様(義輝)は、三好に御所を襲われた際、内裏に参内して主上に政権の返上を申し入れられたのです」


「なに?」


それは、当時大和に居た俺にとって、初めて耳にする話だ。いや……噂話の程度で、返上を考えられているとは聞いたことがあるが、その後も幕府が存続しているので、実行には移さなかったものだと思っていた。


「しかし、当時の主上はそれを拒まれました。何故だと思われますか?」


「そうだな……当時の状勢を考えれば、返されても困ると言った所か?」


あの頃は、三好は主を失って混乱していたし、ならば朝廷が今更、政をできるかと言えば、金も人も足りないのだから、きっと無理だったに違いない。


だが、一方で考える。今ならばどうかと。


「……今ならば、足利の代わりに織田がいるということか。そして、朝廷は力のない足利を見限り、今後は力のある織田に天下を委ねると……」


「そのとおりでございます。ですので、どうか足利幕府の最後の将軍として、見苦しくなく、できれば華のある幕引きを。……足利の子として、兄上にはお願いいたしたく……」


わかったとも、ふざけるなとも言えなかった。弟の真摯な願いは、俺の胸に確実に届いている。だから、今日の所は「少し考えさせてくれ」としかいえなかったのだった。

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