第262話 寧々さん、お稲殿の挑発にハラハラする

元亀3年(1572年)12月中旬 近江国佐和山城 寧々


「……科学ノ発展ニ、犠牲ハツキモノデス」


すでに三日三晩、熱を出してうなされている信玄公を前に、お稲殿は悪びれずにそう言い放った。当然だが、四郎殿以下、武田の皆様は殺気立ち、今にも抜刀して斬り殺さんばかりに睨みつけていた。


「ちょ、ちょっと、お稲殿。言い方っていうものがあるんじゃ……」


「あら?わたしは言ったじゃない。死ぬ可能性はあると。それでもいいと仰せになられたのは……四郎殿。信玄公ではなかったのかしら?」


「それはそうかもしれないが……それでも、その言い方はないだろう?」


わたしもその通りだと思った。だから、頼むからこれ以上変なことを言わないでもらいたい。さもなくば、折角結ばれた織田と武田の盟約は御破算、糞康を檻に閉じ込めたのに、這い出る機会を与えかねないのだ。


「ならば、どう言ったらよかったのかしら?この度は、ご愁傷さまでした……とでも言えば、満足かしら?」


「き、貴様……!」


しかし、わたしの願いは空しく、お稲殿は火に油を注ぐように四郎殿を挑発された。なぜ、そこまで挑発するのか……意味が全く理解できないが、このままでは刃傷沙汰になってしまうのではないかと心配する。しかし、そうしていると……


「これは一体何事だ?」


……と、そこに信長様が現れた。だからわたしは、ここまでの経緯を包み隠さずに報告した。


「ほう……労咳の治療薬を投与したとな?」


「わたしは絶対に成功するとは言っていないわよ。それにこの通り、投薬にあたっては信玄公に危険を説明して署名も頂いている。それなのに、何の文句があるんだい?四郎殿」


「それは……」


流石に信長様の前というだけあって、四郎殿の威勢は先程までもはなかった。すると、ずっと苦しんでいたはずの信玄公が目を覚められたようで、頭を押さえながらゆっくり顔を向けると、そんなご子息に言った。「まずは鎮まれ」と。


「ち、父上……しかし……」


「とにかく、今は枕元で、あまり騒がんで欲しい。頭に響いてたまらんわ……」


「は、ははぁ……」


本当に頭に響いて堪らなかったのかまではわからないが、この一言でお稲殿が四郎殿に斬り捨てられる心配は無くなったと見ていいだろう。そして、信玄公はゆっくりと体を起こした。


「お稲殿……うちの倅が失礼いたした」


「ホントだね。ホント……この坊ちゃん、失礼の極みだわ。だから、甲州金100粒で勘弁してあげる」


それを冗談と受け取ったのだろうか。信玄公は少し笑われた。但し、守銭奴のお稲殿の事だ。それは絶対に冗談ではないと断言しよう。


「まあ、それくらいならば構わないが……それで、どうだ?儂は治るのか?」


「意識が戻ったから、たぶん一先ずは大丈夫ね。もし、明日の朝まで眠り続けるようだったら……」


「だったら?」


「……もう二度と目が覚めずに死んでいたはずさ」


きっとそれも冗談ではないのだろう。ただ、お稲殿も全然茶化さずに真面目に答えたので、信玄公も顔を青くした。


「なるほど。だから、四郎殿を挑発して、煩くさせてみたわけか……」


「弾正忠様?」


「驚くほどのことはあるまい、寧々よ。つまり、これは始めから稲の掌の上で引き起こされた茶番ということだ。流石は、半兵衛の嫁だけある」


「畏れ入ります」


お稲殿は、信長様の言葉を否定せずに、素直に頭を下げた。


「それで……そなたを名医と見込んで頼みがある。この俺を診てもらいたい」


「弾正忠様を……ですか?」


そう言えば、信長様からそう頼まれていたのに、まだ話を通していなかったことをわたしは思い出した。ただ……この状況となっては、今更そのことを言い出すわけにはいかずに成り行きを見守るしかない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る