第261話 寧々さん、人体実験に付き合う

元亀3年(1572年)12月中旬 近江国佐和山城 寧々


全くの予定外であったが、権六殿と真理姫様の婚礼が執り行われた後、わたしは信長様と信玄公、それに新九郎様やお市様、さらに藤吉郎殿と共に上洛の途についた。


京に着けば、義昭公への挨拶や任官などの行事が目白押しで、きっと新年はそちらで迎えることになるだろうが、その前に途中立ち寄ったこの佐和山で、わたしたちはようやく越前からやってきたお稲殿を迎えていた。彼女の目的は……結核治療薬の人体実験だ。


「それで、稲殿……。この病は治るのか?」


「そんなのやってみないとわからないわよ。でも、やらない選択肢はないわよね?」


「もちろんだ」


昨年の夏にお会いした時よりも、信玄公はやつれていた。おそらく、労咳の症状は芳しくないようで、このままだと前世と同じように、来年の春にはお亡くなりになるのかもしれない。そして、それはきっと、本人もわかっているのだろう。その回答に一切のためらいはなかった。


「それで、何をどうするつもりなの?」


「薬はできたから、体の中に投与するのよ」


お稲殿はそう言って、見たことのない袋と鳥の羽軸のようなものをわたしに見せた。この後、羽軸を信玄公の腕に刺して、袋の中に入れているお薬を体の中に流し込むらしい。


「……飲むのではないのか?」


「それは無人斎の爺さんで実験済み。だけど……効果はなかったわ」


「そのお薬が効かないということは?」


「爺さんの吐いた唾に居た菌は、この薬で殺すことができたんだ。ならば、効かないはずはない。効かなかったのは、投与する方法が間違っていたからだ」


「そうか……。それで、失敗した時、死ぬ可能性は?」


「ないことはないわね。でも、その顔の様子だと、試すのなら早い方がいいと思うわ。この後、京に行って様々な行事があるようだけど、それが終わった後では……」


手遅れになるか……。つまり、この薬を試すのであれば、どうやらこの佐和山に滞在している間に行う必要があるということだろう。信玄公もそれは理解されたようだ。


「それで、どうする?もし、やりたくないというのであれば、わたしは止めないけど……?」


「いや、やらせて頂こう」


「父上!?」


「狼狽えるな、四郎。どうせ、やらなくてもそう遠くないうちに儂は死ぬことになるだ。ならば、賭けるしかないではないか。わずかでも、生き永らえる可能性があるのであれば……な」


確かにその通りだとわたしも思う。それに、織田と武田の同盟は既に成っており、仮にここで信玄公が身罷ったとしても、四郎殿がヘマをしない限り、武田は前世のように滅びの道を歩みはしないだろう。


そして、その上で信玄公は、失敗に終わり命を落とした時に備えて、遺言を残す。


「よいか、四郎。儂がこの佐和山で死んでも、表向きは病に臥せっていることにして、その方はそのまま織田殿と共に京に上れ。公方様から片諱を賜り、官位も授けて頂くのだ。儂の死を公表するのは、甲斐に帰国してからとせよ」


「はっ……」


「それで、その後の事だが……織田殿の許しなく戦をするなよ。例え耐えがたき挑発をされてもだ。特に……徳川の動きには気を付けろ」


「徳川ですか!?し、しかし……徳川殿は織田殿の盟友。仲間となった我らに挑発などしますか?」


「……するな。儂ならばきっと、そなたが家督を継承したことに不満を持つ家臣を狙う。そなたの命を軽んずるであろうその者を挑発して、徳川領に越境させたら、それを口実に我らの非を織田殿に訴えて、一戦する許可を取るだろう。そうなれば、そなたは受けて立つのではないか?」


「それは……」


否定しない所を見ると、武田はまだ危ういのかもしれない。だからわたしも、そうならないように助言をした。家康という男は、鐘の銘文に「国家安康」と刻んだだけでもいちゃもんを付けてくるから、油断大敵だと。


「国家安康……で、ですか?特に問題ないように思えますが……」


「……『家康』という諱を真っ二つに斬って儂を殺すのかと、言いがかりをつけてくるのですよ。そういうネチネチした男なのです。徳川家康という男は!」


だから、信玄公の申されるように、絶対に挑発に乗ってはダメだとわたしからも念を押した。武田が前世と同じように滅亡してしまえば、折角閉じ込めた徳川が外に領地を広げかねない。それはきっと、わたしにとっては不利益となる……そういう予感がした。

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