第260話 腹黒狸は、今後の対応に苦慮する

元亀3年(1572年)12月中旬 遠江国浜松城 徳川家康


織田と武田の同盟が成り、この遠江に侵攻していた山県の赤備えも駿河に引き返して、武田は一転、遠江、三河で武田方が占領していた城と領地を返還すると言ってきた。あくまでも戦いたかった平八郎は別にして、その事で今、家中が喜びで沸き立っているが……


「どう思う?弥八郎」


「非常にまずいことになりましたな」


碁盤を挟んで向かい合っている我が参謀は、儂が心に抱いている不安を肯定した。そうなのだ。武田と戦うことができなくなれば、駿河……さらにその先にある関東へ領地を広がることができなくなり、我らは小さいままで弾正忠様の天下に組み込まれていくことになるのだ。


「遠江・三河併せても、我らは55万石。対して浅井は今後創設される斯波家の30万石を併せて120万石。しかも、この先さらに領土が広がるでしょうし、そうなれば、我らが天下の二番手にもなるのは夢のまた夢で……」


「それで、どうしたらよい?」


「今はどうもしようがありませんな。無理に駿河に攻めれば、尾張からも織田の兵が攻め込んできますので、力を蓄えるべき機会を得たと思うしか……」


ぱちんと心地よい音が弥八郎の指から発せられるが、心は真逆で焦るばかり。力を蓄えるというが、蓄えても使うところがなければ、結局は宝の持ち腐れだ。


「……ならば、浅井のように西国辺りにでも、国替えを求めるか?」


「そのようなことをすれば、きっと家臣たちは三河の若殿を担がれるでしょうな。殿は幽閉、あるいは追放。某は殿を誑かした罪人として打ち首……」


おどけたように弥八郎は自分の首を斬る仕草を指でして見せたが、儂としては全然笑えなかった。しかし、信康を担ぐか。思ってもみなかったな……。


「まあ……そう焦らずとも」


「いや、焦るだろう?これでは八方塞がりだ。何とかならぬか、弥八郎」


「何とかと言われましても、今は待つべきだとしか。ただ……」


「ただ?」


「そう遠くないうちに、綻びは生まれるかと。そのとき、上手く立ち回れば……」


ぱちん!


「……殿の運も開かれることもあろうかと」


そして、その綻びとは、信玄の死だと弥八郎は言った。半蔵からの報告だと、どうやら労咳に冒されているようで、そう長くはないだろうということだった。


「なるほど……そうなれば、跡を継ぐのは四郎勝頼。元は諏訪を継いでいたということもあり、揺らせば、勝手に自滅することもあるということか……」


「はい、そのとおりでございますな。まあ……その辺りは、某にお任せいただければ、あとは何とでもいたしますゆえ、ご安心を。それより……」


「それより?……なんじゃ。勿体ぶって」


儂がそう言うと、弥八郎は辺りを見渡した。そして、誰もいないことを確認したうえで、小さな声で囁いた。すなわち、信康を始末しろと。


「弥八郎……おまえ、何を……」


「今すぐにとは申しません。何しろ、三郎様は弾正忠様の婿ですからな。そんなことをしたら、謀反と疑われて尾張から討伐軍がこの浜松にやってきますから、あくまでも先の話ですよ」


「だったら、なぜそのような進言を……」


先の話だというのであれば、その時にすればよいと思うのだが、弥八郎は言った。実行するのは先であっても、準備は今から少しずつしていくのが好ましいからだと。


「しかし……なぜ、信康を殺さねばならぬのだ?あれは、親の贔屓目無しでも中々優秀で、家臣の信望も厚い子だぞ……」


「それゆえに、この徳川がより大きくなるためには邪魔なのですよ。殿、どこの国でも家でもそうですが、太陽は二つも要らないかと……」


そして、弥八郎は信康を数年後に始末する計画の概要を儂に説明した。それは、信康の悪評に繋がる罠を少しずつ仕掛けておいて、積み重なったところで廃嫡やむなしと弾正忠様の判断を仰ぐ形で、最期は処断するという話だった。


「如何ですかな?それならば、悪いのは弾正忠様であって、殿ではございません。あとは、廃嫡の理由が『三郎様の器量が勘九郎様より勝るから』などと尤もらしい噂話をひっつけてばら撒けば、誰も殿を疑わないでしょう。もう何も心配は要りませんよ?」


ただ……こればかりは、流石にすんなり頷くわけにはいかない。いくらお家の繁栄のためとはいえ、信康は我が子。それを殺す決断を下すのは、そう簡単なことではなかった。

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