第258話 藤吉郎は、改名を勧められる

元亀3年(1572年)11月上旬 美濃国岐阜城 木下藤吉郎


権六殿の説得を何とか終えて、こうして共に岐阜まで連れて帰ることに成功したものの、不在の間、香菜がお城で苛めにあっていて、しかもそれを浅井の若君に助けられたと聞いて、儂は慌ててお城に向かった。


もちろん、お手を煩わせたことに対するお詫びとお礼のためだが……


「大奥法度?何だそれは?」


「貴殿の娘御を苛めていた侍女たちに、寧々様が鉄槌を下されたようだぞ。さらに、佐久間殿の息子も……」


お城に張り出されているその法度に関する触書の前で、偶々居合わせた塙九郎左衛門殿から聞いて、より事態が複雑に深刻なものになっていることを知ることになった。ちなみに、佐久間甚九郎殿は信長様直々の折檻を受けられて、今は城下の屋敷で謹慎しているらしい……。


(これは……思っていたよりも、大変なことになっているようじゃな……)


ここに来る途中で一応、饅頭を買って手土産にと思っていて持参しているが、もしかしたら、中身を山吹色のものにすり替える必要があるのかもしれない。そう思っていると……


「木下殿。お屋形様が広間でお待ちです」


お屋形様の近習である万見殿が儂にそう告げたのが聞こえた。だから、儂は出そうになるため息を飲み込みつつ、案内されるがままにその広間に入った。そこには、お屋形様だけでなく、帰蝶様、お市様、さらには寧々殿が勢ぞろいされていた。


「あの……この度は、うちの娘が皆様にご迷惑をおかけしたようで……誠に申し訳ございませんでした!」


状況を素早く分析して、ここは自分に対する処罰を下す場だと理解して、儂は取りあえず土下座をして謝ったが……それに対する答えは、なぜか皆様の笑い声だった。


「あの……」


「藤吉郎、安心せよ。誰もそなたの娘を咎め立てする者はおらぬ」


「は?はぁ……?」


お屋形様の隣に座る帰蝶様より、そのようなお言葉を賜って、儂はそれならなぜ、この場に呼ばれたのだろうかと困惑した。すると、今度はお屋形様が儂に告げた。「名前を変えろ」と。


「名前ですか……?」


「うむ。そちの木下という姓だが、どこにでもありふれた物で、重みにかけているのも事実であろう。それが、おまえの娘が苛められる原因になっているのでは、と寧々に言われたら、俺としてはそうせよと言わざるを得ない」


なるほど……。つまり、これは寧々殿の発案か。お屋形様もこの様子だと、女性方の圧力に負けて、この場に無理やり連れ出されては役割を押し付けられたのかもしれない。


「それで、どのような名前にします?わたしとしては、『羽柴』がお勧めなのですが?」


「羽柴ですか?寧々殿、それは……」


「織田家の重臣である丹羽殿の『羽』とあなたの義兄である柴田様の『柴』を掛け合わせたものですよ。それをお屋形様が藤吉郎殿に与えられる形を取れば、もうあなたの出自を馬鹿にすることは、織田の家中ではできなくなると思うのですが?」


「しかし……それなら別に他の姓でも。例えば、林様と前田殿から『林田』にするとか、細川殿と村井殿から『細村』とするとか……あ、そうだ。面倒臭いので、そのまま妻の旧姓である柴田を名乗っても……」


「ダメです!わたしが羽柴と言ったら羽柴なのです!わかりましたわね?いいですね?」


こうして、有無を言わさずに押し付けてくるのであれば、儂に訊く必要などないではないかと寧々殿に問い詰めたい。しかし……羽柴藤吉郎秀吉か。ふむ、思ったよりは悪くはないかもしれない。


「藤吉郎……」


「はっ!」


「追い打ちをかけるようで悪いが……権六の見合いが終われば、上洛するからおまえも同道せよ。京に着いたら、官位を授ける手はずを整える。従五位下、筑前守だ……」


「へ……?」


これで話が終わったと思っていた矢先に、お屋形様からそう言われて、儂は呆気にとられた。ただ、その疲れ切られたような表情を見ると、これも女性方の圧力によるものかと理解もできた。ならば、これ以上申すまい。


それにしても、羽柴筑前守秀吉か……。これなら確かに、佐久間殿にも侮られることはないだろうな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る