第254話 甲斐の虎は、信長に詫びる

元亀3年(1572年)10月下旬 美濃国岐阜城 武田信玄


「我がお屋形様は、もう間もなくしてこちらに参られます。今暫し、お待ちを……」


ここまで案内してくれた丹羽殿がそう言い残して、部屋から去って行った。そうなると、この場には我が家臣たちしかいないが……儂はため息を吐いた。秋山の不始末、どのようにして詫びればよいものかと思案しながら。


「……まあ、なるようにしかならぬのでは?」


「そうかもしれぬが……おまえがいうなよ、秋山よ」


今日の装いは、馬の皮を鞣した肩衣に鹿柄の袴。相も変わらず傾いた格好で、儂としては頭が痛いが、本人はこれでも『拙者は馬鹿にて』と真面目に謝罪の意味を込めているらしい。


「大丈夫ですよ。これで、この札を首にぶら下げれば、きっと笑いは取れます!」


「笑いを取ってどうする……謝りに来たのだぞ?」


札には、「笑ってください。1回100文」と書かれていたが、本当にこいつ、状況が分かっているのかと腹ただしく思った。それは、他の家臣たちも同様で、勝頼などは「父上、もういいでしょう。この痴れ者を早く斬って詫びに首を差し出しましょう」などとも勧めてくる。だが、そうしていると……


「待たせたな、武田殿。某が織田弾正忠である」


謝罪をしなければならない相手……織田信長が家臣を伴ってこの場に姿を現した。その中には寧々殿の姿も見えたが、儂はまず、頭を下げることにした。


「織田殿……この度は、うちの家臣が大変申し訳ないことをいたした。この信玄、心よりお詫び申し上げる!」


「……で、あるか」


くそ……「で、あるか」だと!?この儂がこうして頭を下げているのに、この若僧……何たる傲慢な物言いだ。だが、落ち度が我らの方にある以上、悔しくても何も言えん……。


「それで、武田殿。この度のそちらの不始末、どのようにして詫びられるおつもりか?」


「そなたは?」


「木下藤吉郎でござる!そちらの秋山殿のせいで、権六殿は……」


「藤吉郎……でしゃばるな」


「はは!……お屋形様、申し訳ございませんでした」


今のやり取りで、その猿顔の男が織田の重臣・柴田権六の懐刀と言われる木下殿ということは理解できたが、今の話は一体どういうことだろうか。すると、織田殿は事情を話してくれた。秋山が寝取ったつや殿は、柴田殿と丁度見合いをされていたということを。


「それは、知らぬこととはいえ、重ね重ね済まぬことをいたした。それで、柴田殿は今?」


「もう恋なんてしない……などとふざけたことを言って、だが、本当に頭を丸めてしまいそうな状況だ。それに引き換え、そちらの当事者は何とも呑気なものだな?何が『笑ってください』だ!俺を舐めているのか!?」


「それについては……本当に申し訳ない。何度も申したのだが……」


つい口から飛び出しそうになるため息を堪えて、儂はもう一度「すまぬ」と信長に頭を下げた。ああ、さっきから謝ってばかりだな。秋山……誰ももう笑わぬから、その札を外せよ……。


「まあ……家臣の男女の事で、そのこと自体に主が口を挟むのは野暮というものかもしれぬが……わかっておられよう。今回の事は、そういうわけにはいかないことを」


「もちろんだ。まず、我らには岩村城をどうこうしようというつもりはない。そのことはわかってもらいたい」


本当にその通りなのだ。臣従までとはいかないものの、和を求めてやってきているのに、そのような馬鹿なことをするはずがない。あ……秋山よ。ここで、「拙者は馬鹿にて」と挑発するでない!もういい加減、諦めてくれ……。


「……わかった。貴殿もどうやら苦労をされているようだな……」


「お察し頂けて、忝く存ずる」


「それで、実際にはどうするつもりか?」


さて、どうしようか。領地を割譲することなどあり得ないし、ならば賠償金を支払うべきか。ただ……できれば、この機会に関係を良好なものにしておきたい。そういえば……


「織田殿。先程、木下殿が申されていた柴田殿のお見合いの話だが……」


「それが如何されたか?」


「よろしければ……儂の娘と見合いをさせないか?」


「なに!?」


おっ!どうやら、手ごたえがあったぞ。木曽を潰して未亡人になった真理はまだ23歳だ。顔も体つきも幼いのが傷だが、儂の娘には違いない。それならば、織田としても悪い条件ではあるまい?

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