第250話 寧々さん、仲介を頼まれる

元亀3年(1572年)9月下旬 越前国府中 寧々


武田が上洛をするらしい。


……といっても、大軍勢を率いて、徳川・織田を蹴散らして、瀬田に孫子の旗を立てるという物騒な話ではなく、かつて信長様や上杉謙信公がやったように、少人数での平和的な上洛らしい。


それは、信長様の陣営にいる我らにとっても、僥倖とも言うべき知らせではあるが……一介の主婦であるわたしに、何の関係があるというのだろうか。


「いや……あれだけ晴信の心をへし折っておいて、流石に関係がないとは……」


「おだまり!」


こほん。無人斎が何やら言ったような気がするが、きっとそれは空耳だろう。……というか、無人斎。あなたは信玄公に労咳をうつされて、お稲殿の所で療養していたんじゃなかったの!?


「あそこは……地獄なのじゃ!お薬がまずくて苦くて、あんなの人が口にするものではないぞ。……しかも、今日などはカビを食べさせようとしたんだぞ!あの女、正気ではないわ!!」


「……つまり、逃げ出してきたのですね?」


「頼む!寧々様。もうこのまま死んでもいいから、あの女から匿ってくれ!実験体になるのはもう嫌なのじゃよぉ!」


「ダメですよ、無人斎。そんなことをすれば、わたしまで巻き込まれるじゃありませんか。ここは、主君であるわたしのために体を張って頂戴。……大丈夫よ、すぐには死にはしないから」


たぶん……だけど。


「そ、そんな!後生ですじゃあ!」


そして、そうしていると、お稲殿がやってきて、「ここにいたのね?」と……無人斎の襟首を掴んで無慈悲にも回収していった。彼女は彼女で今、夫である半兵衛が患うかもしれない労咳を治すお薬を研究しているのだ。実験体の逃走は許してくれない。


あ……今のやり取りで、わたしにうつっては大変だ。特性消毒薬でうがいをしないと。


「それで、寧々様。現実逃避をなさるのは程々にされて……弾正忠様は何と?」


「わたしに岐阜まで来てほしいと……」


「岐阜にですか?」


「まあ……攻めてくると思って、柴田様を東美濃の要衝である岩村城に入れて備えていたのに、いきなりこんな展開になったでしょ?どうしてそうなったのか、詳しい事情を知りたいのと……あとは信玄公との話し合いで間に立って欲しいといった所みたいね」


手元にある書状を慶次郎に手渡しながら、わたしはため息を吐いた。昨年のこの越前府中でのやり取りは、信長様にもお手紙にて伝えていたはずなのだが、どうやらそれだけでは許してくれないということだろう。ならば、行かなければならない。


「ただ……そうなると、万福丸も連れて行った方がやっぱりいいわよね?」


信長様も信玄公も、万福丸の舅にいずれなる方々だ。だとしたら、連れて行かないと二人から何を言われるか……。


「左様ですな。ただ……そうなると、当然ですが元服のお話が……」


「それはまだ早いわ。虎哉和尚もまだしばらくは教えることがあると申されているし、その事を理由に先延ばししましょう」


本当は「もう教えることは何もありませぬな」と和尚からは言われたことがあるのだが、それを知られると元服から祝言へ一直線なだけに、わたしはあえてお願いして、そういうことにしてもらっている。まあ……これは親としてのわたしの我儘だろう。


「では、若にもそう申し上げて、早速準備に取り掛かることにします」


「お願いするわね、慶次郎」


「はっ!」


そう言って、頭を下げる慶次郎の髷が斜めを向いているのを見て、わたしは思う。いよいよ、わたしの知る姿になってきたと。何しろ、今日の衣装は金ぴかな着物にトラ柄の肩衣と袴姿だ。


慶次郎が言うには、娘の阿国ちゃんとお風ちゃんが喜ぶからそうしているらしいが、果たして本当にそうなのか。疑わしい限りだ。


「あ……そうだ。寧々様、府中を離れるのでしたら、お市様にもお伝えしておいた方が……」


「……そうでしたわね。忘れるところでした」


……本音を言えば、このまま忘れていたかった。それなら、きっとお市様の事だ。あとで「あ、ごめん。忘れていましたわ」と申し上げれば、それ以上のことは言われなかったであろう。


ただ……こうして、事前に言われてしまえば、良心の呵責からわたしは自ら伝えなければならなくなる。ため息を吐きつつ、出立前にお城に報告に上がることを決めるのだった。

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