第248話 喜兵衛は、なぜ睨まれているのかと困惑する

元亀2年(1571年)7月上旬 越前国府中 武藤喜兵衛


おかしい……。俺はただ、挨拶に来ただけなのに、なぜこうも奥方様にまるで親の仇のように睨まれているのか。


「信玄公の命により参上いたしました、武藤喜兵衛昌幸にございます。どうか、以後お見知りおきを」


「遠路はるばる大儀であった。俺が万福丸の父、浅井大蔵大輔だ。こちらこそよろしく頼む」


「ははぁ!」


相手は若狭15万石の大名だ。いくらこちらが大国武田の家臣とはいえ、侮ってよいお方ではない。それに、先程は珍しい酒も飲ませていただいたのだ。好意を抱かない理由はない。


「それで、武藤殿。先程のお酒ですが……」


「いやあ、非常に美味でしたな。しかも、透明とは……上方では、これが普通なのですか?」


「いや、普通ではありませんよ。このお酒は、先頃我が妻が生み出したものでして……」


そう楽しそうに教えてくれたのは、今孔明と名高き竹中半兵衛殿だ。そして、この酒はこの越前の特産品として、これより京に限定発売する方針だという。あれ?奥方様の視線が一層厳しくなったような?


「売れると思いますか?」


「売れるでしょうな。しかし、京のみの限定発売ですか……」


「商品に付加価値を付けるため、加えて模倣を防ぎより多くの利を我が家に齎すためです」


「それは理解しますが……」


それだけでは勿体ないと思った。


「勿体ない?」


「限定発売を行えば希少価値が上がり、買い求める客によって自然と値段はつり上がるでしょう。そこは、某も間違ってはいないと思います。ただ……」


この酒を例えば、京だけでなくこの越前でも販売したら……京で手に入らずに悔しい思いをした客は、ここまで足を運ぶのではないか。


「なるほど……そういった客をこの越前に招き寄せて、この越前に金を落してもらうということですかな?」


「左様にございます、大蔵大輔様。さらにいえば、浅井家はそう遠くないうちに、北の庄近くに本拠地を移されるとか?その新しい城下に人を集めるためにも、お役に立つのではないでしょうか」


そう言いながら、この越前でも販売されたら、故郷の親父にも送ってやろうと俺は思っている。もしかしたら、許可は下りないかもしれないが、この城下にも武田の忍びは潜り込んでいるのだ。何とかなるだろう。


「……流石は、信玄公が『我が眼』と称された御仁ですね。頼りになりますね」


「畏れ入ります、奥方様」


信玄公が俺のことをそのように評されていたとは知らなかったが、満更悪い気はしなかった。


「それで……某へのご勘気は解けましたのでしょうか?」


「あら?何のことでしょう。わたしは別に怒っていませんよ。ええ……怒っていませんとも。わたしのお酒をよくも飲んでくれたわね!……などとは」


……つまり、先程飲んだお酒は、本当ならば奥方様が飲もうとされていたということか。なるほど……流石は『徳利女』の異名は嘘ではないということだな。これは相当の蟒蛇だ。


「寧々……いい加減、機嫌を直せよ。武藤殿に失礼ではないか」


「だって……わたしのお酒。楽しみにしていたのに……」


そして、奥方様は袖で目元を押さえた。ただ、噓泣きだ。見ると半兵衛殿も気づいているのだろう。眉をしかめているのが見えたが……


「わかった。わかったから、そのように泣くな。半兵衛、これより武藤殿の歓迎会を執り行おうぞ。酒もたっぷり用意してな!」


これが惚れた弱みということか。大蔵大輔様は騙されているとは気づかずに、奥方様の思惑通りに酒宴の開催を決めてしまった。


「大蔵大輔様……」


「よい。わかっているから、今日の所は何も言わないでやってくれ」


いや、大蔵大輔様も気づいているようだが、敢えて奥方様の演技に乗せられたということか。奥方様がこのような戯けたことで、俺に対して恨みを残さないようにと。


「まあ……こんな我が家ではあるが、改めてよろしく頼むぞ、喜兵衛殿」


「はっ!承知仕りました」


だが、悪い気はしない。何よりもこの浅井家は楽しそうだ。


こうして俺は、新しい職場に胸を躍らせるのであった。



(第4章 越前編・完 ⇒ 第5章 室町編へ続く)

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