第241話 寧々さん、信玄公から眼を奪う
元亀2年(1571年)5月下旬 越前国府中 寧々
かくして、万福丸が元服後に清洲30万石の大名となることは決まったわけだが、このことは様々なところで波紋を呼んだ。まずは……信玄公だ。
「あの……なぜ、お返事を差し上げないうちに姫君が?しかも二人?さらにお母上も一緒に……?」
「難しく考える必要はないぞ、寧々殿。皆、親父の世話をするために呼んだだけなのだから」
「はあ……」
「あれは完全にボケておるからのう。その辺りを徘徊して、甲斐に通報されては迷惑だと思ってな」
「はあ……」
信玄公はそう言うが、無人斎はボケていないだけに魂胆は見え見えだ。こうして傍に居させることで、なし崩し的に万福丸との仲を深めて、独占させようと企んでいるのだろう。こちらが織田家の配慮から、側室になるのはずっと先になると見越して。
ちなみに、お母上は貞春尼、姫君たちは園姫と光姫という。
「それで、寧々殿。そろそろお返事をいただきたいのだが……」
「返事も何も、母親付きでこちらに送り込んできて、どう答えろと言うので?『はい』以外に選択肢がないではありませんか!」
「おお!では、承知いただけたと思ってよろしいのだな!」
そういうと、ケタケタ笑う信玄公だが、わたしとてただでは済ませるつもりはない。そのために、この場に半兵衛を同席させているのだ。さあ、やっておしまいなさい!
「……ところで、信玄様。姫君たちがこちらで心穏やかに過ごせるためには、傅役が必要かと思うのですが?」
「傅役?なるほどのう……確かに必要であるな。色々な意味で」
色んな意味というのは、傅役には密偵の役割があるということを意味している。万福丸が清洲城主となり側に侍れば、自然と織田方の情報が武田家に齎されるだろう。もちろん、その程度のことは、信長様も想定しているだろうが。
「ならば、然るべきお方をこちらに派遣して頂けないでしょうか。例えば……山県三郎兵衛殿、あるいは馬場美濃守殿……」
「い、いや、竹中殿。……その者らは我が武田の要となる重要な将だ。流石に他国に出すわけには……」
「では、真田弾正殿では?」
「弾正か……。う、うむぅ……い、いや、出せんな。出せば、上野が揺れかねぬ……」
「それなら……そのご子息では如何か?確か、三男坊が側近にとしてお仕えだとお聞きしたのですが?」
「武藤喜兵衛のことか。将来性があると見込んで側に置いておるが……まあ、いい。跡取りでもないし、その者を園の傅役に遣わそう」
その言葉を待っていました!のちの真田昌幸をかくしてわたしは、信玄公より掠め取ることに成功したのだ。半兵衛、よくやってくれました。これで、その息子幸村もいずれ万福丸の家来となるでしょう。
「さて……これで、全ての用が済んだわけだ。世話になったな、寧々殿」
そして、話がまとまった後、信玄公の言葉通り、もうわたしたちの間に話し合うべき事柄は残っていなかった。それゆえに、ゆっくりと立ち上がられて、彼は部屋を出て行く。
「無人斎にもう一度会わなくてもよいので?」
きっと、信玄公の遺された時間から考えれば、この機会を逃せばもう二度と会うことはないだろう。しかし、信玄公は首を左右に振った。「会っても喧嘩するだけだから、もういい」と言って。ただ……
「色々とご迷惑をおかけするが、親父を頼みます」
……と、最後にそれだけを言い残して、信玄公は今度こそ部屋を後にした。
「素直じゃないわねぇ……。どうしても心配なら、連れて帰っても別にいいのに」
「信玄公も、本当に無人斎殿のことを嫌っているわけではないということでしょう。まあ、他人が口を挟むようなことではないので、これ以上は……」
「わかっているわよ。余計な口を挟まないわよ。本当よ?そんなに疑うような目を向けなくても……」
確かにわたしはお節介ではあるが、この件については関わるつもりはない。だから……
「まだ居やがったのか、晴信!塩だ!塩を巻くぞ!死ね、晴信!ナメクジのように溶けてなくなれ!」
「うわ!……よくもやってくれたな、糞親父!死ぬのはてめえだ!!この老いぼれが!!」
「老いぼれ!?き、貴様……親に向かってなんという……」
玄関先から罵り合う二人の老人の声が聞こえてきたが、わたしは耳を塞いでこれを無視することに決めたのだった。
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