第237話 甲斐の虎は、神童と邂逅する

元亀2年(1571年)4月中旬 越前国府中 武田信玄


風呂から出て、儂は宛がわれた部屋の縁側に座り涼む。夕食に出た蟹は美味であったなと思いつつも、やはり脳裏に浮かぶのは、寧々殿とのやり取りだ。


「武田に天下は獲れない」


がっかりしないはずがない。何しろ、長年対立してきた長尾との手打ちは成り、北条とも水面下で交渉済みで和平の内諾は得ているのだ。後顧の憂いは全くない。それだけに家臣たちも皆、いよいよ上洛の軍を起こすと思っているだろう。


だが、天下を獲れなければ、やる意味がないと断じざるを得ない。一笑に付したくても、あのように現実的な事柄を次々と突きつけられては、ぐうの音も出なかった。


「しかし……そうなると、方針を変更せねばならぬか……」


儂は空を見上げて呟いた。どれが儂の星かは知らぬが、燃え尽きて落ちる前に勝頼の身が立つように謀らねばならない。標的は、穴山、小山田、木曽。娘を嫁がせているが関係ない。孫もろとも潰さねば、潰されるのは勝頼となるだろう。


はぁ……親父の言った通りだ。儂の人生、全部無駄だったということだな。そう思うと、ため息が出てしまった。


「武田様。少しよろしいでしょうか?」


そのとき、不意に幼き童の声が聞こえた。振り向くと、そこには男の子が膝をついて儂の返答を待っていた。ただ、身なりは小奇麗なので、この家にとっては大切な子ということだろう。それならば、年の頃から考えて、寧々殿の息子である万福丸ではないかと思った。


「それで、万福丸殿。儂に何の用かな?」


「お疲れの所すみませんが……折角の機会なので、川中島のお話を聞かせて頂けたらと思いまして」


「川中島か……」


あの無駄な10年があったせいで、儂は天下を逃したのかもしれないという思いが過り、悔しさがこみ上げてきた。しかし、それをこの子にぶつけても、何も解決にならないだろう。だから、暇つぶしのつもりで快諾することにした。


「それで、何が聞きたい?」


「はい。武田様は、川中島の戦、勝ったと思われていますか?」


勝ったか……。結局どうなのであろうなと儂は思った。川中島の領地は我が武田の物になったから、勝ったというべきなのかもしれないが、あの戦で多くの損害を受けたのは、きっと我が方であろう。弟・信繁に勘助。この二人がいないことが今、とても響いているような気がする。


「万福丸殿はどう思われているのかな?勝ったのは我が武田と思うか?それとも長尾と……?」


質問に対して質問で返す。ちょっと、卑怯な手段かもしれないが、儂は純粋にこの子の答えを聞きたかった。無論、何を言われても子供の言葉だ。真に受けたりはしないが……万福丸は「どちらも負けだと思います」と答えた。


「どちらも負けだと?……どうしてそう思った?」


「川中島は10万石程度の領地と伺いました。それを得るために費やした労力、資金があれば、もっと大きなことができたのではないかと。そして、何より10年という時間は、武田様、上杉様、いずれにとっても勿体なかったのではないかと」


「なるほど。では、訊ねるが……そなたならば、どうしておった?そなたが儂の立場ならば……」


こんな事を言っても意味がないし、大人げないこともわかっている。だが、自分の人生を否定されたような気がして、訊かずにはいられなかった。そこまでいうならば、儂を唸らせて見よ、小童と……。


「そうですね……。もし、ボクが武田様ならば、川中島は上杉様に譲ります。あの場所は、上杉様の本拠地である春日山城とは目と鼻の先ですからね。上杉様としては絶対に引けないでしょう」


「ふん!何を馬鹿なことを。そのような弱腰では、長尾も増長するし、家臣たちにも侮られるではないか」


「ですが……天下という大望を抱くのならば、損切りは必要かと。そして、ボクなら迷わずその10年を使って美濃を攻めます」


「美濃!?」


言うまでもなく、当時美濃は斎藤家の領地だ。儂は、長尾との戦いで背後を突かれぬようにと盟約を結んだが……そういえば、その間美濃は激しい内訌で揺らいでいた……。


「もし、儂が長尾と手打ちして、美濃に攻め込んでおれば、勝てたと思うか?」


「さあ……それはわかりませんが、今よりは勝てる可能性が高かったのではないでしょうか」


それはそうかもしれないが……と思いながら、儂ははっと気が付いた。なぜ、儂はこのような童と戦略を論じているのかと。


(斯波万福丸……噂では少しばかり聞いていたが、恐るべき子だ)


まさに神童という名が相応しいのかもしれない。儂は、素直にこのような子がうちに居ればと思うのだった。

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