第231話 信長様は、焼き討ちを思い止まる

元亀2年(1571年)3月中旬 近江国坂本城 織田信長


「弾正忠様。此度の援軍、真に忝く……」


下座でひれ伏し、礼を述べるのは細川兵部だ。我らが駆け付けるまでのおよそ10日近くに渡ってこの城に籠城していたせいか、顔色はあまり良くはない。それだけに、俺は今苛立っている。「叡山の僧兵どもめ!よくもやってくれたな!」と。だが……


「お屋形様、なりませんぞ。怒りに任せて叡山に攻め込んでは」


「左様左様。そんなことをすれば、武田も上杉も敵に回ってしまいますからな」


「お市様もきっと悲しまれますぞ」


……そこでなぜ、市の名が出てくるのかはわからないが、とにかくまだ何も言っていないにも拘らず、こうして我が家の重臣共は、まるで皆で口裏を合わしているかの如く、俺にまずは冷静になって、まずは話し合いましょうと促してくる。こうなると、嫌でも頭が冷えてくるというものだ。


(誰だ?誰が糸を引いている?)


そして、俺は冷静になってその事を考えて一同を見渡した。


今、権六の口から市の名が出たところを見ると、市が俺を心配して頼み込んだのかとも推測するが、先日届いた便りには左京大夫の庶子に対抗するために、猿夜叉丸の元服を急ぎたいとだけあり、あまり此度のことを気にかけている様子は窺えなかった。だとしたら……答えは一つしかない。


「お屋形様、若狭浅井家より寧々様がお越しになられておりますが……」


「通せ!」


「はっ!」


どうやら、黒幕の登場のようだ。小姓が下がってしばらくすると、寧々は松永弾正と明智十兵衛を連れてこの場に姿を現した。それゆえに俺はまず、「全ては貴様の仕業か」と訊ねた。


「はい」


しかし、寧々はあっさりとそう答えて、その上で「明智殿」と後ろに控える十兵衛に何やら促した。次は何を企んでいるのかと思っていると……


「弾正忠様。上様におかれましては、此度の不幸な行違いに心を痛められて、仲裁を担いたいと仰せでございます」


十兵衛は、思いもかけぬ言葉を俺に言ってきた。


「仲裁?叡山と和睦せよというのか!」


「その通りでございます。そして、条件はこちらに……」


そう言って差し出した書状は、確かに義昭公の物に相違なく、具体的な和睦の条件もそこには記されていた。但し、どうしても納得できないものもいくつか散見している。


「なぜ、叡山の寺領を返さねばならぬ。我らは負けたわけではない。そうであろう?寧々」


「確かにまだ負けていませんが、返さなければ負けるからこそ、この条件を受け入れてでも、和睦する必要があるとわたしは考えました」


「それは、武田と上杉を敵に回しかねないからか?だが、両家は互いにけん制し合っているから、そんなに心配する必要は……」


「その武田と上杉ですが、先頃和睦が成立したようですよ。幕府が仲介の労を取って」


「なに!?」


どうしてそんな話がいきなり飛び出すのかと、寧々の背後に居る十兵衛に視線を向けると、「某も存じなかったのですが、本当の様です。三淵殿がどうやら……」などと話してくれた。


「そういえば、そんな奴もいたな」と思いつつも、奴の能力ならばやりかねず、寧々の話は満更嘘ではないと理解できた。同時に今、危うい立場にいることも。


「つまり……叡山など相手せず、東に備えよというのだな?」


「御意にございます。此度の和睦では、武田は関東に口を出さないことも約したそうです。さすれば、領土を拡大するためには西に進むしかなく……」


その武田領の西にあるのは、遠江・三河の徳川、それに我が織田だ。信玄は寧々の申す通り、必ずこちらにやって来るだろう。しかも、後顧の憂いがなくなったからには、全力でだ。


「……わかった。この条件で構わないから、進めてくれ」


内心では、怒りと悔しさがこみ上げてくるが、俺はこの織田家の主なのだ。決断に私情を挟むわけにはいかず、決断を下すしかない。それゆえに、叡山を丸焼きにしようという思いは……封印せざるを得なかった。

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