第77話𓎡𓇌𓋴𓋴𓇌𓈖〜決戦〜

「……なあ、前にもこんな事なかったっけ。デジャブ?」

「お前には危機感ってものがないのか」

 状況にそぐわぬ軽口を叩きながら屋外へと脱出した二柱は目の前の光景に唖然とした。


「何だ、これは……」

 空を覆い尽くす巨大な影。地震の正体は目の前で暴走する異形の足音だった。


「殺ったのか? セトを」

 ふいに耳を掠めたその声に懐かしさを覚え、ホルスはゆっくりと振り返る。化け物と対峙するその姿は相変わらず野生的な趣を纏っていた。


「クヌム! あいつは母に連れられて裁きの場へ……それよりこれは一体どういう事だ? それにこの化け物は――」

「見て分かんだろ。ラーだよ」

「これが、ラー?」

 一切の面影が消え失せたその姿に思わずつっこみたくなるのをホルスは寸での所で堪えた。


「本来なら全面戦争になる筈だったんだが……ここに来る途中で皆くたばっちまった。一端の神が聞いて呆れる」

 クヌムはため息をつき、再びホルスの方を見やる。


「噂によりゃ殺られたのはお前の方だと聞いてたが……」

「噂も何も俺はここにいるじゃねえか。それで十分だろ」

 訝しげな視線を跳ね除けるようにホルスはあっけらかんとして言った。


「俺はお前が本物かどうか疑ってんだよ。……まあ今の言葉でその疑いは晴れたがな」

 呆れたような、だがどこか嬉しそうなその声はもう一人の兄にも届いていた。


「ホルス!」

 クヌムの隣で応戦する彼と目が合った瞬間、アヌビスはギョッとした。


「おい。これは一体何の冗談だ?」

 ホルスが二人いる。その見た目にわずかな違いはあれど、アヌビスにはそう見えた。


「ラーホルアクティ! お前、その姿……」

「ああ。やっと取り戻した。自分の体を」

「おい、一体どういう——」

 一人蚊帳の外に取り残されたアヌビスが問いかけたその時、巨大な岩塊が彼らの間に落下した。


「話は後だ。今はあいつを封じる事だけに集中しろ」

 クヌムに一喝され三柱は再度怪物と化した太陽神を仰ぎ見る。


「そろそろだな」

 クヌムが呟くとその目線の先、空がパックリと割れ、その裂け目から巨大なワニの頭部が姿を現した。


「あれは……」

 巨大なワニの背中に立つ彼の姿を見てホルスは息を呑む。


「セベク! この遅刻魔が。この一大事に一体どこほっつき歩いてた?」

「申し訳ありません。野暮用で——」

「それはもう聞き飽きた。何かもっとマシな言い訳はねえのか」

「……精進します」


 クヌムはため息をつき、かざした両手から大量の水を吐き出す。勢いよく放射されたそれらは生き物のようにうねり、螺旋を描くように眷属ペトスコスの巨体に染み込んでいく。彼は水を得た魚のように勢いを増し、目の前の異形に突っ込む。


 その時、閃光のような何かが異形の頭に落下した。その鮮烈な一閃はここにいる誰が仕掛けたものでもない。剣を構えたセベクも唖然としてそれを見つめた。ラーはまるで意識を失ったかのようにその巨体をぐらつかせ、その体を地面に横たえる。


 その脳天に強烈な踵落としを決めた彼女は平然と地に降り立ち、勝ち誇るように不敵な笑みを湛えた。一同はその巨体を再度一瞥するが、完全に意識を失ったその体は微動だにしない。


「バステト……いや、お前は一体……」

 その顔はバステト、彼女の顔であるのに、全身から滲み出る瘴気が彼女ではない別のものを想像させた。


「その名は捨てた。私はセクメト。破壊の女神だ」

 セクメトはホルスの姿を確認するとその邪悪な笑みを深める。


「久しいな。お前のおかげで私は……!」

 その顔を歪ませ、即座に襲いかかってきた彼女の攻撃をホルスは間一髪の所で避けた。


「バステト、やっぱりお前……」

 石切場で初めて彼女と会った時、その腕には跡があった。あれはセクメトと戦った時、自分が付けたものだ。彼女の姿を目の当たりにし、ホルスは確信した。


「二重人格、でしょうか?」

「いや、違うな。あの女の体の中には二つの魂が存在してる。片方はすでに食われちまってるが。セトと並ぶ凶悪さを持つあいつにもう一つ神の力が加わった。つまり最強の破壊神が誕生しちまったって訳だ」

「呑気に言ってる場合かよ!」

 ホルスは彼女のその猛攻を避けながら悪態をつく。


「何、セトを討ったお前達なら彼女を打ち倒す事も可能だろうさ。俺は信じてるぜ?」

「ただ自分で手を下す事が面倒なだけなのでは……」

 セベクが遠くで呟くのをクヌムは聞き逃さなかった。

「何か言ったか?」

「……いえ、何でもありません。ですが彼ら、体力の消耗が激しいようですね」

「さすがにセトを討った後、彼女を相手にするのはきついか」

「手伝いますか?」

「そうだな。これじゃ危険を冒してまでナイルの水を吸い取った意味がない。デカブツに伝えろ。遠慮なく踏み潰せってな」

「ペトスコスです」

 セベクはそう否定した後、再び眷属を使役し、邪神に向かって突進する。その四肢を掻い潜り、眷属の前に飛び出したセクメトの体に粘液がへばりつく。彼の口から吐き出されたそれは瞬時に彼女の動きを奪った。


 ホルスが飛び出そうとした瞬間、その間に割って入ったのはセベクだった。突如空中から降ってきた彼は、容赦なく彼女に剣を振り下ろした。


 ガキン、と鋼同士がかち合うその音にセベクは目を細める。即座に粘液を突き破った彼女の爪がその刃を受け止めていた。


「……やりますね」

 その瞬間セベクは戦神としての血が騒ぐのを感じた。


 まるでバネのように四肢を弾ませ、飛びかかる

彼女の猛攻を軽快にかわしながらセベクはまるで舞い踊るように次々と剣技を繰り出す。


「ナイルに縛られた弱神如きが私を舐めるな!」

「おや、ナイルを馬鹿にするのですか?」


 その背後に気配を感じ取り、セクメトは瞬時に身を翻しその刃から逃れる。


「セベクがもう一人いる……!」

「それ、お前が驚く事じゃねえだろ」

 突如背後から剣を振るったのはもう一人のセベクだった。その光景にホルスは驚き、目を見張る。


「これは私の分身。貴方が馬鹿にしたナイルの力、身をもって知りなさい」


 容赦なく振るわれる剣。しかし破壊の女神の名は伊達ではなかった。彼女はその剣を自らの四肢を使って弾き返す。流れるように守りから攻めへと転じるその動きは覚醒した彼女にしかなし得ない技だ。

 

 拮抗し、攻防を繰り返す両者。セベクはその戦いに終止符を打つべく、背後に視線を滑らせる。


 忍び寄る眷属の尾が鞭のようにセクメトの体を直撃し、その足が体を踏み潰す。思いの外あっけなくついてしまった勝負に外野は唖然とした。


「無視はいけませんね。貴方と戦っているのは私だけではありませんよ」

 血振るいするように剣を払い、何事もなかったように納剣するセベクにクヌムは苦笑する。


「タイマン仕掛けといてそれかよ」

「多勢に無勢、そして戦略。戦とはそういうものでしょう」

 淡々と言い放つセベクに戦神の片鱗を見たクヌムは思わず押し黙った。


「ああ。こいつもマアトの餌食か」

「人聞きの悪い。彼女もまた、法の正当な裁きを受けるのです」


 しかし息をついたのも束の間、ペトスコスの頭を何かが直撃し、その体が横転する。


「まだ生きてやがったか」

 再び起き上がったラーの姿を見てクヌムは舌打ちをする。


「ラーの息子。お前の話が本当ならあの巨体の中にアペプの魂が眠ってると、そういう訳だな」

「ああ。あれは元々大蛇アペプの体だ。そこに父の魂を捩じ込んだ。……父への復讐のつもりだったがまさかこんな事になるとは……予想外だった」


 その結果、この化け物が誕生したという訳か。ホルスの脳裏に冥界ドゥアトでの出来事が蘇る。兄に体を乗っ取られ、一瞬で生き絶えた大蛇。だが太陽神ラーの魂の介入によって、強化されてしまった化け物はもはや彼の手に負えなくなってしまった。


「本来冥界ドゥアトで敵対する筈のラーとアペプがその運命を共にするとは皮肉だね」

 いつの間にか戦場に舞い戻ったトトが呟く。


「クヌム。ナイルの水はまだ残ってる?」

「残ってるが……。一体何をするつもりだ?」

「狙うべきは奴の心臓。弱体化した今なら奴を拘束する事も容易い。ホルス、君達ならできるよね?」

 そう言ってトトは兄弟を一瞥する。


「ああ」

 ホルスが天に舞い上がるのを確認し、ラーホルアクティは父の気を逸らす為攻撃を仕掛ける。その隙にアヌビスは自身の影を伸ばし、その巨体を拘束した。


「成程。そういう事ね」

 クヌムは口元に笑みを浮かべ、その手から再び水を放出する。空中を流れるナイルはラーの心臓に向かってまっすぐに伸びていく。ホルスはその川の流れに身を任せ、目の前の心臓に剣を突き立てた。

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