第65話𓇋𓈖𓎼𓄿〜因果〜
「世界の均衡が崩れ始めている。だが力も、記憶すら失ったわしにはどうする事も……」
「主様、どうかご無理なさらず」
自分では立つ事もままならぬ、衰弱しきったその体を神官達が支える。
「あの男、この谷だけではない。世界を——」
「主様! 医師を! 早く!」
糸が切れたように動かなくなった主を抱え、取り乱す彼らの前に突如、人影が射した。
「気が淀んだと思って来てみりゃ、酷い有様だな」
その男は薄汚れた神らしからぬ風貌で聖域に姿を現した。だが神官達にとってその正体など一目瞭然。皆彼を縋りつくように見つめ、懇願する。
「ああ……クヌム様! 主様が! どうか! どうかお助けを!」
「落ち着け。ただ気を失ってるだけだ。まず何があったのか、そこから聞かせてくれ」
主の体を横たえ、神官達はその経緯を語った。全てを把握したクヌムは改めてこの谷の主であるメレトセゲルに視線を移す。
「人様の事情には首を突っ込まない主義だが、とあるガキの影響で最近妙に世話好きになっちまってな。まあそれを差し引いても、今回ばかりは他人事って訳にいかねえ」
クヌムの言葉に神官はすかさず疑問を呈す。
「この霊峰が天界全体に及ぼす影響をあの方が理解しているとは思えないのですが」
「あいつはただの戦闘狂なんかじゃねえ。もちろん生まれ持った能力も並外れてはいるが、あいつが戦争の神と呼ばれるのは、戦いに必要な
「つまり、何か企みがあると?」
神官の問いにクヌムは頷く。敢えて狙ったのだとしたらそれは天界と他の神々へ喧嘩を売ったも同然。世界の均衡を破壊しようものなら彼らが黙ってはいない。裁判から逃亡した二柱が何を企んでいるのか今は知る由もないが、クヌムはあの兄弟がセトを打ち倒す追い風となる事を願った。
「さて、まずは子供達に呼びかけるとするか」
***
イシスが目を覚ました時、辺りは夕暮れに染まっていた。ここ数日トトの手厚い看病のおかげで体調は順調に回復し、ざわついていた心にも平穏が戻りつつある。これで二度目だ。こうして誰かに救われるのは。
「調子はどう?」
イシスはベッドの脇に佇む彼女の姿を見て思わず顔を強張らせる。
「バステト様……」
あの日の悪夢が脳裏をよぎり、イシスは警戒しながら彼女の顔をじっと見つめる。だがその顔に以前のような敵意は感じられず、ただ憐れむような視線が向けられていた。
「ジェフティから全て聞いた。大変だったわね」
思いがけず労いの言葉をかけられイシスは俯いた。
「でも気に病む必要はないわ。信じているんでしょう? 息子達の事」
信じていない筈がない。皆イシスが誇る自慢の息子達である。
でも――。
「どうしても不安が拭えなくて……」
その時、また別の気配が二柱の会話を遮った。声をかけるでもなく無言で入室するトトを怪訝そうな顔で見つめるバステト。その視線を気にする様子もなく彼はイシスにまっすぐ歩み寄る。
「イシス。君が眠っている間に二つの事件が起きた。今日行われる筈だった裁判は被告と参考人二名の逃亡により一時休廷。そしてもう一つ、君に伝えなきゃならない事がある」
そう告げる彼の表情は固く、イシスの頭には自身が考えうる最悪のシナリオが浮かぶ。
「ホルスが……殺された」
その予感が的中し、イシスは心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受ける。
「そんな、一体誰が――」
「……セト。あの男ですね?」
ベッドから勢いよく立ち上がったイシスが部屋を出て行こうとするのを二柱は慌てて止める。
「気持ちは分かるよ、でも――」
「放してください! 私は刺し違えてでもあの男を――」
「イシス……!」
気を失った彼女を慌てて抱きとめるトト。子供から大人へ瞬時に成長した彼を見て、思わず声を上げそうになるのをバステトは寸でのところで堪えた。
「驚いた。貴方のその姿、数百年ぶりに見たわ。何故いつもその姿でいないの?」
「何故って、肩が凝るからだよ。それに――」
「それに?」
不自然な沈黙の後、その視線から逃れるようにトトはバステトから目を逸らした。
「いや、何でもない。僕は裁きの場に向かう。君はイシスの傍にいてあげて」
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