第60話𓂋𓇌𓈖𓃀𓍯〜神と人〜

  サヌラの手厚い看病のお陰で怪我も完治し、人並みの体力を取り戻したホルスはさっそく一家の畑仕事を手伝い始める。


「精が出るな兄ちゃん。あんたがいてくれて助かるよ。やっぱり男手が増えるってのはありがたいもんだ」


 そう言ってサヌラの父タリクは嬉しそうにホルスを見上げた。早くに妻を亡くし、娘と二人三脚で農業を営んできた彼にとってホルスの存在は願ってもない救いの手だったのである。


「昔は農作用に牛を飼ってたんだが、妻が亡くなってから飼育に手が回らなくなっちまって。今や人力って訳さ」


 すると隣で作業していたサヌラが不満げな声を漏らす。


「何よ。わたしじゃ物足りないって言うの?」

「俺はサヌラのお陰でここまで元気になれたんだ。礼なら彼女に言ってくれ」

「そう。わたしが助けなければ彼はここにいなかった」

 娘の言い分にタリクはそうだなと言って笑った。

 

 半神だった頃と比べて体力は随分落ちてしまったし、農業を生業としている者に比べればその手際も幾分か劣るだろう。


「ところであんた、素人にしちゃあ随分手際がいいじゃねぇか。それとも他の村で畑でも持ってたのか?」


 その問いにホルスは言葉を詰まらせる。嘘はつけない。かと言って天界で農業していたなどとは口が避けても言えなかった。


「彼あまり覚えていないみたいなの。自分がどこから来て何をしてたのか、まだ思い出せないみたい」


 思わぬ助け舟にホルスはほっと胸を撫で下ろす。タリクは娘の言葉を疑う様子もなく、むしろ合点がいったという様に深く頷いた。


「ホルスと言ったか。俺が見た所あんたはここに来る前百姓だったに違いない。記憶がないってんなら、もう一度人生をやり直すつもりで娘を貰ってくれりゃあ——」

「やめてよ父さん……!」 


 サヌラは顔を真っ赤にしながら父の言葉を遮る。だがその表情はすぐに曇った。


「——どうせ無理なんだから」

 そう悲しげに呟いた言葉は、砂漠の乾いた風にさらわれホルスの耳に届く事はなかった。



「……ホルス。ちょっといい?」

 ひと仕終え、畑のへりに腰を下ろし土を払っていたホルスにサヌラが声を掛ける。


 彼女は人目を気にする様にキョロキョロと辺りを見回し、ホルスを家の裏にある小屋へと案内する。


 牛舎の名残りだろうか。足を踏み入れた瞬間獣の臭いが鼻を突く。しかし家畜のいない室内は広々としていて、人が二人入ってもまだ余裕があった。


 牛舎の中心まで来た所でサヌラは急に立ち止まり、振り返って言った。


「わたしね、もうすぐ結婚するの」

 

 おめでとう、喉まで出かかった言葉をホルスはぐっと飲み込む。そう口にするには彼女の顔はあまりにも暗かった。その顔が別の何かを訴えているような気がしてホルスは何も言えず押し黙る。

 

「……嬉しくないのか?」

 沈黙の後やっと口にした言葉は自分でも呆れる程そっけない響きを纏っていた。配慮に欠ける、と言われればそれまでだが、腹を割って話す方が互いの為だと思ったのだ。


「これが嬉しそうに見える?」

「悪い……俺、そういうのよく分かんなくて」


 恋や愛などというものとはほぼ無縁のホルスにとってサヌラの気持ちを推し量る事は神上がる事以上に難しい。申し訳なさそうに答えるホルスを見てサヌラはクスリと笑った。


「……そういうとこよ」

「え……?」


 ボソリと呟いた言葉の意味を聞き返そうとしてホルスは口を噤む。何だかまた墓穴を掘るような気がしてならなかったのだ。


「この村にはね、しきたりがあるの。」

 そう言ってサヌラは目を伏せる。

 

「この集落に住む村の娘は全員、年頃になると長老が選んだ村の男と結婚する事が決められてる。他人が勝手に決めた相手だもの。そこに愛などないわ。村の繁栄の為、ただ子孫を残す為だけに引き合わされるの。わたし達、まるで心のない道具みたい」


 心なしか彼女の声が震えている様に感じるのは気のせいだろうか。ホルスは彼女が話すのをただ黙って聞いていた。


「昔ね、許嫁がいたの。と言っても二人だけの秘密だったけれど。当時村のしきたりの事も知っていたし、結婚する前に異性と関係を持つ事は禁じられてた。だから子供同士の約束とは言え公にはしなかったわ。でも——」


 サヌラはまるで何かに耐えるようにぎゅっと拳を握った。


「ある日彼と密会していた事がバレて、わたし達は村の長老からお叱りを受けた。わたしはそれだけで済んだけど、彼は——」


 当時を思い出し、耐えきれなくなったサヌラは手で顔を覆い、しゃがみ込んで嗚咽を漏らす。


「ろくに食事も与えられず暗い懲罰房の中で彼は一人死んでいった……!」


 そしてサヌラは背中を丸め、子供のように泣きじゃくった。


「わたし知らなかったの。彼がわたしを庇った事も、それによって命を落とした事も。『自分が彼女を誑かし、彼女は騙されただけだ』彼がそう言ってわたしを庇ったのだとあ後から聞いて絶望したわ。彼がいなくなった事にもそして自分の浅はかさにも。本当はわたしも同じ罪に問われて死ぬ筈だった。……時々考えるの。彼のいないこんなろくでもない村で一生を過ごすくらいならいっそ、後を追った方が幸せかもしれないって」


 ホルスは自身の境遇と彼女を重ね合わせ、泣きじゃくる彼女をとても不憫だと思う。それでもホルスには一つだけ伝えたい事があった。


「お前がどんだけ辛いか俺には分からねえ。だから簡単に生きろとも言えねえ。生きるも死ぬもお前の自由だ。だけど俺はお前がいなくなったら悲しい。そんだけだ。もしかしたら命を賭けてお前を守ったそいつも同じ気持ちだったのかもな」


 ホルスの言葉にサヌラは俯いたまま呟いた。


「……やっぱり貴方には分からないわ。わたしの気持ちなんて。」

「確かに疎い俺じゃ分かる訳ねえか……」


 精一杯言葉を選んだつもりだったが、彼女の心を救うには荷が重かったようだ。分かりやすく項垂れるホルスにサヌラはぷっと吹き出した。

 

「でも貴方がわたしを思って言ってくれた事は分かってるわ。ありがとう」


 しかし人間というのは随分とつまらないものに縛られている。サヌラの話を聞き、ホルスはそう思った。ルールや責任、義務。そんなものが一体何になるというのだろう。


「でもよ、何で訳の分からねぇ規則みたいなのに従わなくちゃならねぇんだ。人間が勝手に決めた事だろ?」

「わたし達が人間だから。この世のルールに従わなきゃ生きていけない。はみ出したら淘汰されるのが世の常だって貴方に分かるかしら?」


 人間界で暮らしたことのないホルスには到底理解できる事ではないが、やはりその違和感は拭い去れない。


「やっぱり俺には分からねえ。人間には寿命があるのに好きな事もできねえなんてそれじゃあ一体何の為に生まれてきたんだ?」


「世の中にはどうにもならない事だってあるのよ」


 知っている。不条理に命を奪われ大切な人を失う絶望も、二度と会えない悲しみも。自分も同じだとそう励ましたかったが不用意に身の内を明かせない今のホルスには無理な話だった。


「……やっぱり、人間でもない貴方に分かる筈もないわ」

 呟いた言葉に驚き、ホルスは彼女を見た。


「とっくに気づいてたわよ。貴方がわたし達と違う事ぐらい。——ホルス。貴方一体何者なの?」



ドオオオン——


 その時、何かが爆発したような轟音と共に遠くの方で人々の悲鳴が響き渡った。


「何だ……!?」

「家の方からだわ」


 翼を持たぬ今、空中から様子を伺う事も即座に駆けつける事も出来ない。ホルスは不安そうな彼女の手を取り、音のした方へと駆け出した。

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