第59話𓋴𓉔𓍯𓍢𓆓𓍯〜少女〜
——ここは、どこだ?
鉛のように重い体に鞭を打ち、ホルスはゆっくりと立ち上がる。一体ここがどこなのか、暗闇に包まれたこの場所では自分の立っている位置すら把握する事は難しい。
「——もう死んでるんじゃないのか?」
「——いいえ、生きてるわ。まだ体が温かいもの」
声が聞こえる。
ホルスはその声を頼りに暗闇を彷徨い歩く。
「待って、今動いたような——」
突然差し込んだ一筋の光にホルスは思わず目を細める。遥か先までまっすぐに伸びた光は、まるで道標のようにホルスの足元を照らした。
——この先に、何かがある。
そう確信したホルスはその光に導かれるように歩き続けるのだった。
天井だろうか。目の前に映る景色をホルスはぼんやりと眺める。夢か現か、未だ判然としないまま、ホルスはベッドからゆっくりと体を起こした。
「やっぱり! 生きてたのね!」
興奮したその声に驚き、ホルスもまた声を上げる。すぐ隣に人がいるとは思いもしなかった。
「ここはどこだ? 俺は……」
俺はあの男に——。
未だ覚め切らない頭でホルスは目の前の少女に問いかける。
「家の近くで倒れてるのを見かけたの。それも道の真ん中よ? まるで助けてくれと言わんばかりよ」
少女はクスリと笑ってホルスを見た。
「貴方こそ、何故あんな所に倒れてたの? ……村で喧嘩でもした?」
村……?
その言葉にホルスは混乱した。彼女の言う通りここがどこか村の集落なのだとしたら、それは人間の住む世界、下界でしかあり得ない。
しかしそんな事があり得るだろうか。瀕死の目に遭ったとて、神が下界に降り立った話など聞いた事がない。夢か、それともここが
「いや、そういう訳じゃ……」
上手く説明出来ずホルスは言葉を濁した。自分でもよく分からないのだ。セトに体を貫かれ、死んだかと思えば何故か今ここにいる。
そう正直に答えると少女は特に気にする様子もなく、ふーんと軽い相槌を打つだけだった。
頭を打って記憶喪失にでもなった事にしようか。追求されないのをいい事にホルスは不運な青年を演じる事に決めた。
「わたし、サヌラ。貴方は?」
「ホルス。助けてくれてありがとな」
差し出された手を握りながらホルスは答えた。
サヌラ。
愛想が良く、朗らかな笑顔を浮かべる彼女の顔をホルスはまじまじと見つめる。年は自分と変わらない様に見えるが、実際の所よく分からない。何せこれまで神官以外の下界の人間と関わった事も、言葉を交わした事もないのだから当然だ。
「……わたしの顔に何か付いてる?」
相手の顔をじっと見つめたまま動かないホルスを不思議に思ったのか、サヌラは怪訝そうな顔でこちらを見た。
「いや、普通の人間ってのが珍しくてつい——」
そこまで言ってホルスはしまったと思った。
「……人間? 貴方も人間でしょ? おかしな事を言うのね」
サヌラの言葉にホルスはふと思った。自分は本当に人間になってしまったのかもしれない。そうでなければ人間であるサヌラにこの姿が見える筈がない。
とにかく状況確認だ。
ホルスはこの不可解な状況から脱するべくベッドから足を下ろす。
「——ッ」
そうして立ちあがろうとした瞬間、体がぐらりと揺れる。右足に鈍い痛みと、激しい倦怠感にホルスは思わず膝をついた。体がまるで言う事を聞かず、自分のものではなくなってしまったかのようだ。
「まだ動いちゃダメよ。貴方足を怪我してる。それに三日も眠ってたのよ? 立てないのも無理ないわ」
そう言ってサヌラは慌ててその体を支え、無理やりベッドに引き戻した。その右足をよく見ると彼女の言う通り足首には包帯が巻かれ、手当てをした跡がある。
眠らずとも自然に回復していたあの体力は一体どこへ行ったのか。怪我だって大概のものは放っておけば数時間で完治していた。ホルスは自分の体の変化に戸惑い、同時に確信した。
これが人間の体なのだ。半神といえど、やはり神と人間とでは天と地程の差があるのだという事をホルスは思い知った。
暫くは絶対安静だとサヌラに釘を刺されていたにも関わらず、ホルスは幾度となく脱走を試み、ベッドから転げ落ちてはこっ酷く叱られる日々を繰り返した。彼女には悪いと思いながらも、やはり残してきたアヌビスとセトの事が気がかりだ。しかし焦る気持ちとは裏腹に、一向に回復しない体力と怪我にホルスの中で苛立ちが募る。
加えて天界に戻る為には、神格——いや、もう神ではないのだから霊格を上げるしか道はない。しかし神上がるどころか人間に降格してしまったホルスにとってそれは至難の業のように思えた。
それからホルスの体と怪我が回復するまでの数ヶ月、サヌラは毎日欠かさず様子を見に来ては甲斐甲斐しく世話を焼き、足の傷が悪化し、膿んで高熱を出した時も、彼女は寝る間も惜しんで看病してくれた。
その間二人は様々な話をした。最初は落ち込むホルスに気を使って話題を振っていた彼女だったが、話している内に彼女自身もその会話にのめり込んでいった。
身の回りで起きた些細な出来事から、身の上話まで、その話題は多岐に渡り、サヌラの狙い通り自分の体すら満足に動かせず落ち込んでいたホルスにとって彼女との会話が唯一の楽しみとなった。
そして彼女が一家で農業を営み、不作に苦しんでいる事を知ると、ホルスはせめてもの恩返しにと自分の持つ農作の知識、更には狩りの方法まで、生き抜く為の知恵の全てを彼女に授けた。まさかこんな所で自分の知識が役立つとは思ってもみなかったが、それに彼女は酷く感動し、ホルスの話を熱心に聞き入った。
その甲斐あってか、その年に植えた作物は全て順調に育ち、豊作となったのはまた別の話。父と母が豊穣の神である事も黙っておかねばなるまい。
ホルスは体が快方に向かいつつある中で、彼女の献身に感謝していた。同時に見ず知らずの自分に何故ここまで良くしてくれるのか疑問でもあった。今は神でもなく、何の能力も持ち得ないただの人間なのだ。しかし彼らを見守り、幸せを与えるのは本来こちらの仕事である。その彼らに看病されている自分を情けなく思った。
ホルスはベッドの脇で疲れて眠ってしまったサヌラを眺めながら、ふとセベクの言葉を思い出す。
触れ合うからこそ分かる気持ちもあると、彼はそう言った。王として民を、そして人々を守り、慈しむとはどういう事か、ホルスはその言葉の意味を少しだけ理解できたような気がした。
体が回復したら畑でも手伝おうか。
ホルスはそんな事をぼんやりと考えるのだった。
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