第58話𓊃𓇋𓇋𓍢𓍢〜自由〜

「アヌビス様」 

 地下へ向かう途中、緊張をはらんだキオネの声がその足を止めた。


「法廷から姿を消した? 二柱ともか?」


 冷水を浴びせるが如く届いたその一報にアヌビスは舌打ちをする。


「やはり圧力、でしょうか?」

「いや、厳格な法の前では例えラーであってもその罪を逃れる事はできない。セトは本来の裁判が始まる前に自らの罪を告白し、まず自分が標的になるよう仕向けた。そうすれば法に厳格なマアトは奴の罪についても追求せざるを得ないからな。そうして突発的に始めた裁判で騒ぎを起こして逃亡するのが狙いだったのかもしれない。あくまで憶測だが」


 いずれにせよ二柱が同時に姿を消したのは都合が悪い。


「それで、見つかったのか」

「現在他の神々と共に廷内を捜索中ですが未だ消息不明です。屋外に逃亡した可能性も——」

「馬鹿な。一度出廷すれば、正式な判決が出るまで退出は不可能だ。一体どうやって……」


 こうなると関係者を疑わざるを得ない。密かに彼らと繋がりを持ち、手引きした者を突き止めなければならない。だがその前に——。


「奴らがどこへ行ったのか、ここに戻ってくるつもりならまずいな……。まだ準備も整っていないっていうのに」


 地上が急に騒がしくなったのに気づいたアヌビスは彼女との会話を中断し、後ろを振り返る。


「マアティ、お前は一度地上へ戻れ」

「え? で、ですが……」

「セトが戻ったようなら尚更、怪しまれる行動は避けるべきだ」

「承知致しました」


 一刻を争う状況の中、その意図を即座に理解したマアティは老体とは思えぬ身軽さで階段を駆け上がり、地上へと姿を消した。


 キオネに王宮へ戻るよう指示し、地下道を駆け降りると、まるで待ち構えていたかのように目の前に人影が現れる。

 

「奇遇ですね。こんな所で会うなんて」

「何故お前がここに……」


 よりにもよって一番顔を合わせたくない奴に出くわしてしまった。閉鎖的な空間ゆえ、無視する事もできない。


「地上が騒がしいですね。陛下が戻られたのなら一大事だ。——ですがご心配なく。全て、滞りなく進んでいます」

「どういう意味だ。俺はお前に何か頼んだ覚えは——」


 その言葉を遮るようにエゼルは口元にそっと人差し指を当てた。


「言ったでしょう? 協力すると。それに地下とはいえここは音がよく響きます。あまり大きな声を出されぬよう」


 何故その仕草をお前が知っている?

 彼が見せたその仕草にアヌビスは強烈な違和感を覚えた。

 

 静かに。

 声を出さずとも伝わる合図。幼い頃ホルスがよく使っていた仕草だ。何か悪戯を思いついた時には必ずこうして指を立て、にやりと笑う。身内以外知る事のないそれを何故彼が知っているのか。


 だが今追求すべきはこの窮地を脱する為の策である。その仕草に従いアヌビスは言葉を飲み込んだ。


「謁見室にセトが」

 王宮に戻ったキオネからの報告にアヌビスは全身が強張るのを感じた。


 やはり戻ったか。

 その背中に氷を当てられたような悪寒が走り、アヌビスは気を鎮めるように深く息を吸う。


「ラーも一緒か?」

「いえ、セトだけです」


 その報告に内心ほっとした。窮地である事には変わりないが、二柱が相手となるとさすがに勝算がない。


「セトの臣下達に合図を。俺はここで待機する」

「ですが——」


 敵の予想外の帰還によりキオネはこの計画が不十分である事を理解していた。だが天井をじっと見つめ、思い詰めたような主の表情にそれを諭す事もできない。


 今なら戻って計画を練り直す事もできる。だが敵の出方を伺い、二の足を踏んでいるうちにまた大切なものを失うような気がして怖かった。


 あの男の側にいるだけで、体が、そして心までもが闇に沈んでいくような感覚を覚える。その闇に呑まれ、自分が自分でなくなる前に全てを終わらせる。その決意がアヌビスをここまで駆り立てていた。


「それで、本当に宜しいのですか?」

 キオネの気持ちを代弁するかのように今度はエゼルが口を開く。


「大方、陛下が井戸へと落下し、水を被ったタイミングでこの天井を破壊した後、その場で串刺しにでもしようというのでしょう。いえ、できないというのではありません。私が問いたいのはそれで致命傷を与えられるのか、という事です」


 セトの右腕である彼が何故そんな心配をするのか、アヌビスにはすでに見当がついていた。キオネが見つけた水路の先。それは王の寝室だった。


「お前はセトに忠誠を誓ったのではないのか?」

「忠誠? 知りませんね。貴方方のように永久的な命がある訳でもないですし、そんなものに縛られている時間はないのですよ。私はただ己の為だけに生きているのです」

 

 この男はついにはっきりと口にした。長年仕えてきた主を裏切る意思を。その心の内を垣間見て、アヌビスは改めてこの男の人間らしからぬ強かさ、そして冷酷さに戦慄する。


「セトを殺して次は俺か? その言い草じゃ、最終的にここにいる全員を手に掛けそうだな」

「嫌だなぁ。私は貴方の味方ですよ。少なくとも、今はね」


 エゼルはちゃらけた様子で意味深な言葉を口にすると、今度は真剣な顔つきでこちらを見つめた。


「とにかく、今は言い争っている場合ではありません。私についてきてください」


「……信じていいんだろうな?」

 アヌビスは警戒しながらその後に続く。


「私はか弱い人間ですよ? 神である貴方に一体何ができるというのです? それに他でもない貴方と協力するのでなければこんな大それた事はしませんよ」


 随分買われているようだが、彼は一体自分に何を期待しているのだろう。


 それに神殺しなどという大層な計画を立てる人間がか弱いなどとは誰も思うまい。だが神と人の間に決定的な力の差がある事は確かだ。人間などその気になればいくらでもれる。


 アヌビスは先導する男の背中をねめつけ、慎重に歩を進めた。


「聞こえますか? この音」

 歩きながらエゼルはこちらに問いかける。徐々に開けていく視界、吹き抜ける風、そして——。


「これは……」

 アヌビスは一瞬、夢を見ているのかと思った。見渡す程広い湖には蓮の花が一面に咲き乱れ、その水面を揺蕩っている。


 これが本当にあの地下道なのか?

 以前ここに来た時にはこんな場所は見当たらなかった。書物でしか見た事のないその光景にアヌビスはしばしその場に立ち尽くす。


 しかしその光景に魅了されたのも束の間、脳が揺れ、殴られたような衝撃が突然アヌビスを襲う。何が起きたのか分からぬままその意識は深い闇の底へと落ちていった。

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