前のエピソード――第６０話𓂋𓇌𓈖𓃀𓍯〜神と人〜

　「……何だ、これ」

　目の前の光景に２人は目を疑った。

　日が沈み始めるこの時間、いつもなら夜の闇と共に村には静寂が訪れる。だがこの日は違った。激しく燃える炎が村全体を煌々と照らし、辺りは逃げ惑う人々の悲鳴に満ちている。辺り一面火の海と化したその光景はまさに地獄絵図だった。

「父さん……！！」

　突然サヌラが声を上げ、家のそばで倒れている父の元に駆け寄る。タリクは倒壊した家の瓦礫に足を挟まれ動けなくなっていた。

「今助ける！」

　ホルスは慌てて二人の元へ駆け寄り、彼の足を圧迫している瓦礫に手を掛ける。しかし思ったよりも重く、人間の力ではとても持ち上げられそうにない。

「俺達だけじゃ無理だ。誰か助けを……！」

　そう言って再び駆け出そうとするホルスを力のない声が引き留める。

「ホルス。……俺はもう助からない。動けるなら他の村人を助けてやってくれ。」

「何言ってるの父さん！　諦めちゃダメよ！　必ず助けるわ！……必ず……！」

　サヌラは嗚咽を漏らしながら重い瓦礫を懸命に動かそうとする。

「……サヌラ。お前には辛い思いをさせたな。当時生きていくのに必死だった俺は、母さんがいなくなって傷心しているお前に構わず毎日畑に立たせた。お前には年頃のお前にはやりたい事もたくさんあっただろうに、友達と遊ぶ間すら作ってやれなかった」

「それは父さんだって同じよ。わたしが望んでやった事だわ。わたしは父さんを助けたくて……」

　泣きじゃくる娘を見、タリクは困ったように微笑む。そして再びホルスの方に視線を移した。

「ホルス。お前がうちに来てくれて本当によかった。毎日が楽しかったよ。何だか息子が出来たみたいで………嬉しかった」

　タリクの頬を一筋の涙が伝う。彼の顔は死に際とは思えない程晴れやかだった。

　サヌラは父のそばに駆け寄り、泣き叫ぶ。

「父さん！！　嫌よ死なないで！！　父さんがいなくなったらわたしどうやって生きていけばいいの……」

　わたしを一人にしないで。

　そう呟く娘にタリクは今にも消え入りそうな声で言った。

「……お前は一人じゃない……。家族を持って……しあわせに……くらすんだ……」

　——ありがとう。

　声にならない声が二人の耳に確かに届いた。

　ホルスは泣きじゃくるサヌラの肩を抱き、俯いた。

「……お礼を言うのはこっちの方だ」

　そうして滴り落ちる雫が砂漠を濡らした。

「いやぁぁぁぁ！！」

　感傷に浸る間もなく、つんざくような悲鳴が辺りに響き渡る。

　人々を助けなければ。

　ホルスはその悲しみを振り払うかの如く弾けるように駆け出した。

　そしてまだ建物の中に逃げ遅れた人がいるかもしれないと、ホルスはミイラを作るための工房に足を踏み入れた。そこでホルスはキョロキョロと辺りを見回し、ミイラを包む為の布を引っ張り出して全身を包むように巻きつけた。

　ミイラを包む布は石綿製で、防火に優れている事を以前アヌビスから教わったのだ。

「誰か……！　うちの子を助けて！」

　すると炎が燃え盛る中一人の女性が叫んでいるのを見つけ、ホルスは彼女に駆け寄る。　

「まだ小さい子供なの！　お願い、助けて……！」

「分かった。俺が中に入ってその子を助ける。あんたは早くここから逃げるんだ」

「ありがとう、でも……！」

「離れたくないのは分かる。でも俺を信じてくれ。あんたが死んじまったらその子はどうなる？」

　ホルスに諭され、女性は再度お礼を言いその場から走り去った。

　ホルスが家の中に足を踏み入れるとすぐに家の隅で蹲り震えている少年を見つけた。炎に囲まれ、逃げ場を失ってしまったようだ。

　ホルスは瓦礫を崩さないよう慎重に歩を進め、彼の前に手を伸ばす。少年は震えながら差し出した手を握り、ホルスはそれを引き上げるようにして彼を抱き上げた。

「——もう大丈夫だ。よく頑張ったな」

　ホルスが少年を労うように頭を撫でると、彼は堰を切ったように涙を流し、腕の中で泣きじゃくった。ホルスは少年を抱き抱え、急いで屋外へと脱出する。

　村の外に出ると、先程の母親が泣きながら少年の元へ駆け寄る。

「ありがとう……！　何とお礼を言ったらいいか……」

　息子に駆け寄った母親はホルスに何度もお礼を言い、その言葉を背中に受けながらホルスは再び炎の中へ飛び込んでいく。

　この中にはまだ助けられる人が大勢いる。途中何度も煙に巻かれ瓦礫に足を取られながらホルスは炎の中で怯える村人達を次々と屋外へと避難させる。勢いを増す炎。ホルスは傷だらけの足を引きずり、何とか意識を保ちながらそれに立ち向かう。

　もう誰も死なせたくない。

　悲しむ顔を見たくはない。

　その思いがホルスを突き動かしていた。救える命があるなら一人残らず救ってやる。サヌラが言うこの世の不条理。それらに反抗するようにホルスはひたすら救助に当たった。

　そうして最後の一人を救い出し、外に出た瞬間、外で待つ村人達の歓声が響き渡る。

「ホルス。あなた凄いわ。……何だかすごく勇気を貰った。」

　泣き腫らした顔を綻ばせながらサヌラが駆け寄る。

「……父さんもあなたの事、息子として誇り思ってると思う」

　サヌラは他の村人と協力して瓦礫から救い出した父親の亡骸に視線を移し、再び涙を流す。ホルスには彼のその顔が何故か優しく微笑んでいるように見えた。

　父とは、親子とはこういうものなのかとホルスは思う。川の中で父と再会した時も泣ける程嬉しかったが、自分が生まれてすぐ旅立ってしまった父の記憶は曖昧で、その愛を間近で感じる事はなかった。しかしタリクと出会った事で親子の絆というものがどういうものか、それが分かった気がする。きっと父もこんな風に思っていたに違いない。自分が父を慕い、愛していたように——。

「村の英雄ホルス様。村の長老がぜひ貴方に会いたいと申しております。怪我の手当も我々にお任せを」

　噂を聞きつけたのか、長老の使いらしき男がホルスに声を掛けてきた。

「いや、村はこんな状態だしタリクの弔いもまだ——」

　ホルスはサヌラの方を見たが、彼女は父親の遺体の側で村人達と話をしていた。皆彼女を心配し、口々に弔いの言葉を残していく。村の女性に肩を抱かれ、その胸の中でサヌラは声を上げて泣く。

　ホルスは断ったがそれでも引き下がる様子を見せない男に根負けし、仕方なくその後に続いた。