第56話𓇋𓃀𓍢𓎡𓇋〜息吹〜

「だがその前に、話しておくことがある」 


 当然、ここにいる誰もが報復を恐れている。それでもこの策に加担したのは、その憎悪が恐怖を上回ったからに違いない。アヌビスは意を決してその心の内を吐露した。


「俺は、陛下を……あの男を憎んでいる」


 淡々と語り始めたアヌビス。その言葉に周囲の者達は静かに耳を傾ける。


「悪戯なんて生温いものじゃない。俺はあいつを殺すつもりだ」


 その言葉にその場にいる全員が息を呑んだ。


「止めたいなら止めればいい。今なら裏切り者としてあの男に直接突き出すこともできる。——だが」


 アヌビスは固唾を飲んで聞き入っている臣下達一人一人の顔を見渡し言葉を続ける。


「今程不満を口にしたお前達もあの男に相当の憎悪の念を抱いている筈だ。でなければこんな提案に易々と乗る筈がない」


「その通りですアヌビス様。貴方がここに来た時から、私も覚悟を決めておりました。そしてここにいる誰もが貴方の境遇を理解しています」


 そう言って一歩前に進み出たその老人の顔を見て、アヌビスは懐かしさに胸が震える。


「お前は……」

「マアティでございますアヌビス様。少し見ぬ間にご立派になられて……」

 そう言って男は目を細め、緊迫したこの状況にそぐわぬ柔らかい笑みを見せた。


 彼は幼少期、今はなき王宮で兄弟の世話係を任されていた男だ。時が経ち、深く皺が刻まれたその顔には確かにかつての面影が残っている。


「お前も母の神殿に行ったのではなかったのか?」

「ええ。セトに王座を奪われてから大半の者がイシス様と共に王宮を後にしました。ですが私は決意したのです。ここに残り、復讐を遂げる事を」


 まさか、自分と同じように敵の懐に飛び込む者がいようとは。


 思わぬ所に味方がいたものだ。アヌビスは人間の身でありながら危険の中に身を投じた彼の勇気を讃え、また心強く思った。


「しかしこの十数年間で私にできた事といえば、オシリス様が残した形見たねを大切に育てる事だけでした。彼らを奮い立たせる事も私だけでは到底成し得ず、壮絶な経験をなさった貴方が彼らに直接訴えかける事で彼らもようやく心を決めたのです」


「種?」

「ええ。青蓮ブルーロータスです。たった一の花が今は地下の水脈に所狭しと咲き乱れております。水気のあるあの場所にはあの方も近づく事はできないでしょう」


 確かに水路から戻ってきたキオネは開口一番こう言っていた。


 オシリス様の気配がする、と。

 最初に井戸見つけた時は気のせいだと思い特にあまり気に留めなかったが、再度水路に入った時、確信したのだという。


 その蓮に父の念や力が込められているのだとしたら気配を感じたとしてもおかしくはない。

 

「お前も井戸の存在を知っていたのか?」

「ええ。ここを使えば安全だとエゼル様が教えて下さいました。前の王宮が崩れ去る数年以上前の事です」


 つまりここに移り住む前から奴はあの穴に目を付け、事前に井戸と水路を作り上げていたという事だろうか。奴がセトを誘導したのか、セト自身が事前に予告していたのかは不明だが、あの男が一体何を考えているのか謎は深まるばかりだ。


 まさか本当に手助けを?

 自分達がやろうとしている事を知りながら、それに加担しようとしているのか?


「水面を揺蕩たゆたうあの花が私達を守ってくれる。私はそう信じて長い年月彼らとともに過ごしました」

「キオネはそんな事一言も……」


 そこまで繁殖しているのなら地下道に潜り込んだキオネの目にも間違いなく留まる筈だ。


「蓮の花は古来より神聖な花として大切にされてきました。それは我が国だけではありません。遥か遠い異国の地でも同じように重宝され、神や仏の化身として我々の心に平穏をもたらしてきたのです。天界や冥界に縁のある蓮は神と人間、恐らく生死という概念を持つ我々だけが見ることのできる花なのかもしれません」


「つまり生物、という事か」

 確かにキオネは眷属、神の使いではあるが、影が神格化したいわゆる無生物である。


「ご無礼を申し上げたかもしれません。あくまで掻い摘んでしまえば、という話です。お気を悪くされませんよう」

「いや、間違ってはいない。それならキオネが気づかなかったのにも説明がつく」

 

 何にせよあの男を陥れる道が開かれつつある事をアヌビスは感じていた。


 あの男が最も恐れる事。それは戦いで負ける事でもその地位を追われる事でもない。兄である先王オシリスが再びこの世に影響を及ぼす事、言うなれば父の存在そのものがセトにとっては唯一のトラウマなのだ。


 歴代のファラオが眠るあの谷でネフティスが見せた魔術。その術に父の面影を見たセトは明らかに動揺していた。


「十分すぎる働きだ。これであの男に復讐する算段がつく」


 アヌビスはそう言ってすぐさま踵を返した。


「お前達の仕事はセトを例の部屋におびき寄せる事だ。俺は謁見室から地下へ下りる。マアティお前も来い」


 この策がどれ程の危険を伴うのかここにいる全員が分かっていた。だが互いに秘密を共有してしまった今、後戻りはできない。


 だが今こそ、反撃の狼煙を上げる時だ。

 アヌビスははやる気持ちを抑え、地下の階段を駆け降りた。


 

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