第41話𓎡𓍯𓎡𓍯𓂋𓍯~心の行方~

「それしか方法はないのか?」

 アヌビスは思わずそう尋ねた。


「ないね。少なくとも僕はそれ以外の方法を知らない」

 ラーを陥れた者が誰であれ、その命を奪う事は本意ではない。その決定権が自分にある訳ではないが、王宮に戻る前に術者の正体を調べておく必要がある。


「……そうか。分かった」

 アヌビスが踵を返すのと同時に、背後から呻き声がした。


「ホルス……!」

 先程まで冥界ドゥアトを映していた筈の鏡から彼は姿を現した。闇の淵から生還したその顔は憔悴しきっており、ホルスはその場に倒れるように膝を付く。トトはその体を支えつつ顔を上げるも、すでにアヌビスの姿はなかった。


「大丈夫?」

 トトに支えられながら、ホルスは目の前の椅子に手を伸ばす。だが確実に伸ばした筈の右手は空を切り、バランスを崩したホルスは再び床に手をついた。


「無理しないで」

 再び手を差し伸べるトトに介抱されながらホルスは何とか椅子に収まった。見覚えのある景色にホルスは改めて元の世界に戻ってきた事を実感する。壮麗な天井画。壁一面を覆い尽くす本棚。ただ一つ、以前と変わっていたのは机の上にある不思議な形をした盤だ。


「それはメヘン。いわゆるボードゲームだけど、この盤面がそのまま異世界へと繋がってるんだ。君が今までいた場所はメヘンという大蛇の体内に作られた疑似的な世界。僕が作り出した冥界ドゥアトだよ。そしてこの駒の動きにのっとって君に試練が与えられていた。よって君の言動は全部僕に監視されていたという訳さ」


 それを聞いてホルスは安堵した。自分が体験したこの不可解な現象の全てを、彼ならば解き明かしてくれる。そう思ったのだ。


「……残念だけどそれについて今僕が言える事は、その力が従来の神の力とは全く異なる性質を持っているという事だけだ。それも恐ろしく悪意に満ちた……。そして君はアペプを打ち倒すその瞬間も、その場に座り込んだまま動かなかった。無数の閃光がその巨体を切り刻み、君はその体に手を触れずして敵を瞬殺してしまったんだよ」


 知恵の神すら知らない未知の力が自分の中で暴走を始めている。その事実にホルスは全身が粟立つのを感じた。だがそれについてホルスには一つだけ気になっている事があった。


「俺、見たんだ」

「見たって、何を?」

 怪訝な顔で問い掛けるトトにホルスは続ける。


「前に話しただろ? 俺の中に時々現れる記憶や感情の事。蛇が倒れた後、俺はそいつを心の中から追い出そうと必死だった。だけどその時に見えたんだ。そいつの心が」


 その心に触れた瞬間、ホルスはその人物が耐えがたい苦痛と憎悪の中にいる事を知る。絶望にも似たその感情は母に思いを打ち明けた時に感じた虚しさに似ていた。彼と意識を共有する事で、ホルスはその人物にある種惻隠の情を抱くようになっていた。この力や記憶が一体誰のもので、干渉する理由は何なのか。もしかしたら冥界ドゥアトの川で出会った青年とも何か関係があるかもしれない。


『そこにいるべきはお前ではない』

 彼が残した言葉の意味。そして自分を嫌っている理由も、もう一度彼に会う事で何か分かるかもしれない。


「……セトを倒す為にこの力は必要なんだ。それに俺の中にあるこの感情も記憶も、他人のものとは思えなくて……」

「だからもう一度あの川に戻りたいって訳? やめときなよ。あれは君に扱えるようなものじゃない。それに――」


 トトは急に言葉を区切ったかと思うとその右目をじっと見つめた。


「それ、いつからの?」

 射抜くような視線。その言葉にホルスはドキリとした。彼は薄々気づいていたのだ。右目の異変に。


 ホルスは視界が日々霞んでいく事に恐怖を感じていた。そしてその異変が特に顕著なのは、毎回力が顕現した後だ。


「橋を渡る時足を踏み外したのも、椅子に手が届かなかったのもそのせいだね。これは憶測だけど、仮にその力が君のものになったとして、その代償に君は視力を失う事になる。僕にそれを隠してたのも、止められると思ったからでしょ?」


 図星だ。だがホルスは焦っていた。このまま神上がる事すら出来なければセトを倒すことは愚かアヌビスを探し出すことすら出来ないと。


「他人の意識と体を奪って好き勝手する奴に話が通じるとは思えないけどね」


 確かに極限状態に身を置く事はその本能を呼び覚まし、神上がる為の覚醒に必要な要素の一つだ。だが命を落としてしまえば元も子もない。あれだけ苦しめられたにも関わらずその力を肯定し、利用しようとするホルスにトトは早くもその精神が乗っ取られつつあるのではないかと心配になった。


「……俺はアヌビスみたいに頭が良い訳でも母上みたいに魔術が使える訳でもねえ。それがどんなに危険で無謀でも、俺は足掻く事でしか前に進めねえんだ」


 彼の覚悟に気付いていなかった訳ではない。それはセトを打ち倒し、王座を取り戻すと聞いた時から分かっていた事だった。そして無茶な男である事も。


「それに、あの場所ならまだ俺自身の力が使えた筈だ。もし何が起きても、あの力には頼らねえ」

「自分でコントロールすら出来ない癖によく言うよ」


 トトは半ば諦めたように小さく息を吐き、懐から何かを取り出す。目の前に差し出されたそれは神秘的な光を放つ緋色の小石だった。


「それは二つの世界を行き来できる代物だ。それを握って念じれば、君は再び冥界ドゥアトに足を踏み入れる事が出来る。戻る時も同じだ」


 ホルスはトトから受け取ったそれをまじまじと見つめる。この何の変哲もない小石にそんな力が備わっているとは到底思えなかったが、その顔を見る限りふざけているようにも見えない。


「君が決めた事だ。僕に止める権利はない。だけど一つだけ約束して」


 その目に冷やかしの色はなく、ホルス同様覚悟を決めたトトは続けた。

 

「無茶はしない事。少しでも異変を感じたらすぐに離脱するんだ。体力も視力も奪われたその体で君が出来る事は限られてる。それに外部からの干渉が一切出来ない場所だ。君に何が起きようと助ける術はない。それを心に留めておいて」


「――ああ。分かった」

 ホルスは頷き、小さく息を吐くとそれを強く握り締めた。

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