第32話𓄿𓎡𓍢𓅓𓍢〜悪夢〜
「——お前のせいだ。イシス。」
目の前でそう呟くのは、かつて自分の神官だった男だ。こちらを蔑むように見下ろし、その手には剣が握られている。
「……どうして……。」
男が剣を振り上げてもイシスはそこから一歩も動けなかった。神官達が命を落としたのは自分の責任でもあると感じていたからだ。
——憎まれていたのなら仕方がない。
イシスは覚悟を決め、ぎゅっと拳を握った。
剣が振り下ろされた瞬間、イシスはベッドから飛び起きた。
「……また、同じ夢。」
イシスは呟いて震える体を抱きしめる。
敢えて口にするのはそれが夢であると自覚するためだ。日に日に鮮明さを増していくその夢がいつか現実になるのではないかという不安に苛まれる。
神殿に戻ってからというもの、イシスは結託したラーとセトに復讐する為、ネフティスと共にあらゆる策を練り、魔術を試そうとした。
しかしその後再び2人の前に現れたバステトに止められてしまったのだ。
例え2人がエジプト屈指の魔術師であろうと、2柱の巨悪に立ち向かうには分が悪過ぎる。準備が整うまで何もしないと約束させられたのだ。
それに加えてシュウやテフヌトにまで命を狙われる事になり、挙句この悪夢である。
イシスは心が波立つのを抑えられず、寝巻きのまま中庭へ出た。
そうしたからといって、ここにはもう咎める者すらいないのだ。
「……大丈夫?顔色が優れないようだけど。」
声のした方を見ると、ネフティスが心配そうにこちらを見ていた。かく言う彼女も青白い顔をしている。
「ネフティス。貴方もここにいたのね。」
恐らく彼女がここに来た理由も同じ様なものだろう。どんな悪夢なのか、聞かずとも見当はついた。
「……あの子はもう、貴方を憎んではいないと思うわ。」
イシスの言葉にネフティスは顔を上げる。
「いえ、他に憎むべき相手がいると言うべきかしら。……バステト様が宿舎で見つけたパピルスにはっきり書いてあったわ。『殺す』とね。
「……殺すって、誰を?」
こちらを見るネフティスの顔が強張る。
「あの子が本当の母親が私ではなく、貴方だと知ったのは最近の事。あの子がまだこの神殿で暮らしていた当時憎むべき相手といえば誰だか分かるでしょう?」
ネフティスははっとした。
「——セトだわ。」
アヌビスはその目で見ているのだ。
父が叔父の手によって殺されるのを——。
「じゃああの子……最初からセトを殺すつもりで……。」
イシスとネフティス、この2人が自分を欺いていたという事実を利用して、仇に取り入ったと言うのか。
その強かさと痛々しいまでの覚悟にネフティスは唖然とする。
「……幼い頃からずっとその機を窺っていたのかも知れないわ。」
イシスの顔に苦悶の表情が浮かぶ。
あの子は大丈夫だと、勝手に思い込んでいた。物分かりの良い、賢い子だと言って無理をさせてきたのだ。
当時たった2歳の幼い子供に。
仮に今詫びたとて、彼が自分達を責める事はないだろう。しかしその心に負った傷は深い。
恐らく、本人も気づかない程に。
「どうして気づいてあげられなかったの……!」
イシスは自分の無神経さに腹が立った。
もっと早く気づけていれば、あの子を1人で行かせることもなかったというのに。
「……嘆いていても仕方がないわ。私達は今出来る事をするだけよ。」
そう言ってネフティスは服の袖から何かを取り出した。四つ折りにしたパピルスをイシスが訝しげに見つめる。
「……それは、何?」
ネフティスが折り畳まれたそれを開くと、中には赤い髪が数本入っていた。
「これはセトの髪よ。あの牢獄で私の世話をしてくれていた神官に頼んで櫛を拝借したの。」
それで絡まった毛を採取したというのか。
「何故そんな事を?——そもそもセトの髪は黒い筈だけど。」
「呪術の材料として使えないかと思ってずっと持っていたの。あいつ、本当は赤い髪なのにわざわざ黒に染めているのよ。何故かは知らないけど。」
兄弟であるイシスさえ知らなかった事実だ。単に気に入らないのか、何か事情があるのかは不明だが、イシスは嘲る様に口角を上げた。
瞳だけでなく髪まで赤いとは。全身を血で真っ赤に染めた戦争の神らしい姿だ。
「そうね。この髪で1つ、面白い事が出来そうだわ。——ネフティス、手伝って頂戴。」
その言葉にネフティスは戸惑う。
「——でもバステト様との約束は……。」
「アヌビス、あの子は聡い。例え憎くても衝動的に動く子じゃないわ。ただ殺す機会を窺っているだけではない気がするのよ。連れ戻したい気持ちは強いけれど、命懸けで忍び込んだあの子の策を台無しにする訳にもいかない。あの子の目的を探りたいだけよ。……ネフティス、これも約束の内に入るのかしら?」
イシスが何をしようとしているのか不明だが、約束に関して言えば限りなく黒に近いグレーだ。
それでもネフティスは姉の思いに出来るだけ寄り添いたかった。例えそれが危険を伴う道でも構わない、そう思っていた。これは姉と息子への贖罪、そして自分の望む道なのだから。
「言ったでしょう?私にとっては姉さん、貴方だけが正義なのよ。——何があってもついていくわ。」
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