第43話𓆓𓍢𓈖𓎡𓄿𓈖 〜Circle of Life〜2

 気が付くとホルスは悠然と流れるあの川の畔に佇んでいた。幾度となく脅威に晒されながら、何故か足を運んでしまうこの場所に不思議と縁を感じてしまう。


 あの時と同じようにホルスは川の前で膝を折り、水面を覗き込んでみる。しかしどれだけ目を凝らしても、そこに映るのは自分の顔だけだった。周囲には平穏な時が流れ、あの喧噪が嘘であったかのように静まり返っている。


 あれは夢だったのだろうか。だが襲い来る水の感触も恐怖も全てが現実だった。まるで生気のない青年の異質な気配も忘れる筈がない。


「もしまだここにいるなら出てきてくれないか。俺はお前の名前だって知らないんだ。一度ちゃんと話がしたい」


 変わらずの静寂。辺りにはさらさらと流れる川の音だけが響き、ホルスは小さく息を吐く。


「自らここに舞い戻ってくるとはただの物好きか、それとも宣戦布告か」

 

 何の前触れもなく、声の主は突然現れた。ホルスは首を振り、やっと姿を現した青年にゆっくりと歩み寄る。


「お前は誰なんだ? あの記憶はお前のものか?」

 その問いに青年は嘲笑を浮かべる。


「いずれお前の体は俺のものになる。聞くだけ無駄だ。お前自身も感じているだろう? 己の体が侵食されていく感覚を」


「どうしてこんな事するんだ。俺達は……家族なんじゃないのか」


 他人というにはあまりにも似すぎている。青年の冷めた目を見つめながらホルスは訴えた。


「家族? 笑わせるな。そのめでたい頭に教えてやる。俺が何者であるかを」

 青年は吐き捨てるように言って、自らの出生について淡々と語り始めた。


「お前は兄であるアヌビスが腹違いである事を知った。だが母親にも子供がもう1人いた事は知らないだろう」


「何、だって……?」

 発した声は言葉にならず、ホルスはただ唖然と彼を見つめた。


 それじゃあ今目の前にいるのは――。


「俺の名はラーホルアクティ。お前が生まれる数年前、イシスとラーの息子としてこの世に生を受けた」

「待て、何を言ってるんだ。母上は――」

「残念だがこれは事実だ。だがイシスは自ら望んで俺を生んだ訳じゃない。望んだのは父の方だ。父は当時から優秀な魔術師だったイシスの血を欲しがった。元を辿ればイシスも同じ血族ではあるが、血が濃ければより優秀な子供が生まれると踏んだのだろう。その息子を意のままに操り、父は天界そのものを支配しようと考えていた」


 ホルスは反論する事も出来ず、呆然と彼の話に耳を傾けた。


「お前の言う通り、血の繋がりで言えば俺はお前のもう一人の兄、つまり家族だ。だがお前が天界でのうのうと暮らす中、俺は何年も前からこの深い闇の中に囚われている。不思議だとは思わないか?」


 何故彼がここにいるのか、生気のない顔がそれを物語っている。


冥界ドゥアトとはいえ、ここはトトが作った偽物の筈だろ?」

「そうだな。そうでなければ死んでもいないお前がここに来られる筈がない。だが修行の場として作られたこの空間。何故冥界ドゥアトを模す必要があったのか、疑問に思わなかったのか?」

 含みのある言い方にホルスはその真意を問う。


「……別の目的でもあったってのか」

「ここは行く当てのない魂を閉じ込める為の場所。怨念を纏った魑魅魍魎が渦巻く奈落の果てだ」


 その言葉にホルスは再び幼い頃の記憶を呼び覚ます。母が毎晩脅すように語っていた恐ろしい場所とは、この虚構の冥界ドゥアトだったのかもしれない。


「トトがお前をここへ閉じ込めたのか?」

 その問いに、彼は首を振る。


「いや、俺はイシスに殺された。そして俺のバァは彼女の魔術によって拘束され、この場所に留まったままだ」

 まるで感情を失ったかのように彼は眉一つ動かさず、淡々と事実を述べた。


「母上が……殺した? お前を?」

 そんな事ある筈がない。例えそれが事実であったとしても、何か理由がある筈だ。事故の可能性だってある。

 

「信じられないという顔をしているがお前は母親の事を何も分かっていない。あの女は強かで、自分の息子の為なら何だってする。それが殺しであってもだ。俺はあの女に存在自体を否定された。お前達が俺を知らない事が何よりの証拠だ」


 何かの間違いだ。そう思うのと同時にその脳裏にはあの日の母の言葉がこびりついていた。


『ホルス、貴方はやはりあのひとの子なのですね』

 そう母から声を掛けられた時、心の内にあったのは喜びだけではなかった。あの時感じた違和感は彼の心の叫びだったのかもしれない。


 母への思い、そしてその印象がホルスの中でわずかに揺らぐ。自分の思う母は崇高で慈愛に満ちた、この世の王を支えるにふさわしい女神。


「何故母上はお前を?」

 その問いに彼は苦虫を嚙み潰したような顔で答えた。


「生けるものを殺し、その血を浴びる事でしか快感を得られなかった俺は、幼い頃から身近な動物を殺しては死体の山を作る事に没頭していた。その時からイシスは俺に手を焼いていたが、いつしかその標的が人間へと変わった途端、俺は殺されていた。アヌビスを引き取り、自らもオシリスとの間に子をなしたイシスは尚更、息子達がその毒牙にかかる事を危惧したという訳だ」


 そんなの自業自得じゃないか。

 その言葉をホルスは何故か口に出来なかった。理由が何であれ、母親に愛されなかった悲しみを、その心の叫びをこの身で感じていたからだ。


「イシスは国家神ラーとの息子である俺を捨て、不出来なお前達を選んだ。その怒りと、膨らみ続ける殺人欲求は俺をある行動へと駆り立てた」

「ある行動?」

「外の世界への介入だ。その右目を介してな」

 その言葉で、ホルスは悟った。


「これはお前の目なのか?」

「ああ。全てを破壊し、燃やし尽くす太陽神ラーの息子である俺の目。イシスは俺を身勝手に殺したにも関わらず、その目を形見としてもう1人の息子、つまりお前に託した。それが間違いだったと気付いた時には最愛の息子ホルスはもうこの世にいない」

 歪んだ笑みを湛えながら彼は言った。


「俺に成り代わるつもりか?」

「優秀なものが生き残るのが自然の摂理。そして世の為だ」

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