第40話𓏏𓇋𓎡𓄿𓂋𓄿~脅威~
トトに連れられ、地下の研究室にやってきたアヌビスはホルス同様、部屋の壮麗な作りに驚いた。だがさらに驚いたのは正面の鏡に弟の姿が映っていた事だ。
「これは——」
呆然と立ち尽くすホルスの前に巨大な何かが横たわっている。
ほんの数時間前、最終試練として自身の体の数十倍はあろうかという大蛇アペプと対峙したホルスはその巨体と圧倒的な強さに苦戦を強いられていた。
その鱗は鋼鉄のように硬く、鋭利な刃物ですら弾いてしまう。先程狩った蛇とはまるで勝手の違う難敵。
殺るか殺られるか、まさに極限の状況。
ホルスは自身を鼓舞するように両頬を叩き、自身を丸呑みにしようと迫ってきたアペプの頭部に飛び乗ると、護身用に隠し持っていた小ぶりなケペシュ(注)をその眼球に突き刺した。
その瞬間噴き出した大量の血にホルスは何故か胸が高鳴るのを感じた。
「――ッ」
右目を失ったアペプは狂ったように暴れ回り、振り落とされ全身を壁に強く打ち付けたホルスは一瞬意識が遠のくのを感じた。それでも無理やり体を動かそうとすると、全身を軋むような痛みが走る。
同じくその激痛から錯乱状態に陥っていたアペプは怒り狂い、再びこちらに狙いを定め襲い掛かって来た。だが思わず目を閉じたホルスが次に目にしたのは、数秒前まで暴れ回っていた大蛇の亡骸だった。ホルスは戦慄した。もはや原型を留めぬ程無惨に切り刻まれ、ただの肉片と化したそれらは飛び散った自身の体液でぬらぬらと光っている。
一体何が起こったのか、ホルスはその手に浴びた大量の返り血を見て自覚する。
これは自分がやったのだと。
研究室で固唾を飲んで見守っていた二柱も当時その光景に唖然とした。いくつもの閃光がまるで稲妻のようにその体を切り刻んでいく様子をただ呆然と眺めているしかなかった。
「……あいつが
アヌビスが問うとトトは静かに頷いた。正確に言えばホルスの中の何かがやったのだと推測できるが、結果的には同じ事だ。
「あいつは今どこにいる?」
「僕が作った
「どういう事だ」
含みのある言い方にアヌビスは苛立った。
アペプを打ち倒しても、ホルスは頑なにその場を動こうとしなかった。目の前にはすでに現世への扉が開かれ、彼にも出口が見えている筈だ。その意図を探る為、トトはホルスの心を必死に読み取ろうとするが、案の定霧がかかったように不明瞭でその心の内を全く窺い知ることが出来ない。
「駄目だ。ここから出たら俺はきっと——」
——皆殺してしまう。
心中を察する事は出来ないが、その代わりトトはその言葉の続きを読み取った。
「今ホルスは自我を失ってる。今彼をここに呼び戻せばどうなるか、君にも分かるでしょ?」
アヌビスの射抜くような視線、そしてその胸中にトトは反論する。
「僕だってホルスの身を案じてない訳じゃない。仮眠なんて嘘さ。ずっと調べてたんだ。ホルスを正気に戻す為の方法を。でも秩序を司る神として、僕は出来るだけ中立でなくちゃならない。マアトと同じ様にね。それにこの地下室の存在も、この非常事態だって見ず知らずの人間に悟られる訳にはいかないんだ」
そう捲し立てるように言ってトトはため息をつく。
「でも、結局見つからなかった。……だから待つしかないと思った。彼が己自身で闇に打ち勝つのを。……だけど幸い君が現れた。君ならホルスを助けられ——」
「出来ない」
その言葉にトトは眉をひそめる。
「どうして? ホルスは君のたった一人の兄弟なんでしょ?」
「……出来ないんだ」
そう言って俯くアヌビスにトトはそれ以上問いただす事は出来なかった。
「……悪いが呪いを解く方法、これだけは教えてくれ」
「だけど今は——」
「そういう約束だった筈だ。ホルスの事はあんた達で何とかしろ。俺には関係ない。それと、俺がここに来たことはあいつには言うな」
そう言い放ったアヌビスの表情はまるで別人の如く冷め切っていた。
「……分かったよ」
トトはホルスの様子を伺うように鏡の方を一瞥すると小さく息を吐いた。
「呪いをかけるのに真名が必要なのは君も知ってるよね? 神がこの世に生を受けた際に生命の源ヌンから授かる名前で、親が子につける一般的な名前とは別物。その一つ一つに神の力が宿っていて、神の能力と同じく与えられた本人しか知りえない。だけどそれは本来誰にも教える事はない。言うなれば命を握られるのと同じ事だからね。ヘカの呪いはその真名を知る事により相手の神力を奪い、その神の持つ能力を封じ込めてしまう恐ろしい術。君はその解き方を教えて欲しいと言ったけど、呪いにかかったのが誰だか知っているの?」
アヌビスは首を振った。
「そう。これは僕の推測、というか殆ど事実なんだけど、呪いにかかったのはラーだ。毎日輪廻を繰り返す彼がその力を失い、その肉体は復活する事なく腐っていく。その魂の器を手に入れる為、アメミットを使って半神を狩っていたという訳さ。神を狩るのは至難の業だけど半神なら命を奪う事なんて容易な事だ。至聖所、それに宿舎での失踪事件についてもホルスから聞いたよ。恐らくラーは相当焦ってる。祈りを捧げさせる為の神官と、自身の器にする為の半神の遺体を集める為に手段さえ選んでいられないんだ」
となると、自分に呪いの解き方を聞き出せと命じたセトとラーは繋がっている事になる。さらに、セクメトが率いるアメミットを操っているのがラーならば、至聖所で神官を殺したネフティスとその後天幕で遺体を回収したセクメトも繋がっていて……。トトの話からアヌビスは数々の疑問が線となって繋がっていくのを感じた。
だがそこまで考えて、ある可能性に気づいた。
もしやネフティスの協力者、つまりあの離れから彼女を解放したのは――。
アヌビスは背中に冷たいものが走るのを感じた。
いや、だがセトが自ら彼女の拘束を解いていたのだとしても、それは自分が彼女に作戦を吹き込み、殺すふりをするよりも前の話だ。あの男は今も彼女が生きているとは思っていないだろう。もし単なる捕虜ではなく二柱の間に主従関係があったのだとしても、彼女は死をもってその支配からも解放されたのだ。
「で、肝心の解き方を知っているのか?」
アヌビスが問うとトトは複雑な顔をして頷いた。
「単純な事だ。呪いをかけた本人を殺す事だよ」
(注)エジプト発祥の鎌型の剣
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