ヘリオポリス ー九柱の神々ー

第３９話𓋴𓇌𓈖𓇌𓏏𓍯〜セネト〜

　ふと誰かに話しかけられたような気がしてアヌビスは辺りをキョロキョロと見回した。

「ここじゃここ！」

　声を頼りにやっとその姿を捉えたアヌビスはその姿に眉を寄せる。子供の背丈程の老人がじっとこちらを見上げていたのだ。好奇の目に晒されつつ老人は朗らかに笑った。

「お主はわしの姿を見てもあまり驚かんようじゃの」

「お前は誰だ」

　明らかに怪しい風貌の男にアヌビスは間髪入れず問いかけた。

「わしはベスという。得意な事は舞と戦じゃ。これでも人間達、特に民衆からは魔除けと戦いの神として崇められておるのじゃぞ」

　トトではないのか。

　疑いの目を向ける訳でもなく、むしろ興味を失ったように背を向けるアヌビスをベスはすかさず呼び止める。

「待て待て。おぬし、名は何という？」

「……インプ」

　アヌビスは咄嗟に偽名を口にした。見た所悪い男ではなさそうだが用心するに越したことはない。

「インプか。なかなか面白い名前じゃのう。それで、先程からずっと辺りを見回しておるようじゃが誰か探しておるのか？」

「トト神に会いに来たんだが、それらしい建物も、姿も見当たらない。あんた何か知らないか？」

「成程、おぬしもトトに会いに来たという訳じゃな。ほれ、そこに建っている建物がそうじゃ」

　ベスが指し示す先に小さな建物が見える。先程まで砂漠しかなかった場所に突如現れたその建物はとても神殿とは言い難い質素なものだった。

「トトは今研究室で仮眠しとる。最近徹夜続きじゃったからのう。何、今に起きてくるじゃろう。それまで中で待っておるといい」

　ベスに案内され、アヌビスは建物の中へ足を踏み入れる。しかし部屋の中はまるで空き巣にでも入られたかのように本と紙が散乱し足の踏み場もない。

「久しぶりに良い研究対象が見つかって興奮してしまったようでの」

　アヌビスが机の上に出来た紙の山に視線を移すと、一枚の書類に目が止まる。手に取った瞬間アヌビスは思わず声を上げた。

「これ……」

『ホルスの瞳に関する研究結果とその所感』

　そう書いてある。しかし読めるのは題名だけで、そこから先は暗号化され読むことが出来ない。

「何じゃそれが気になるか？　じゃが――」

「ホルスがここに来たのか？」

　ベスの言葉を遮ってアヌビスが問いかける。

「何じゃおぬしら知り合いか？」

「いや、そういう訳じゃ……」

　アヌビスは慌てて訂正した。迂闊に正体をバラす訳にいかない。

　それにしても何故ホルスの目がトトの研究対象になっているのだろうか。視力がいいというだけで目を付けられる訳はあるまい。

「……それ、僕の椅子。それと資料勝手に読まないで」

　背後から声がしたかと思うと、その手から乱暴に資料が奪い取られる。眠そうな目でこちらを睨みつける少年にアヌビスは眉を上げた。

「トト。起きたなら声ぐらい掛けんか」

「……ごめんってば」

　ベスに一喝され、トトと呼ばれた少年は目を擦りながら呟いた。

　待て。今トトと言ったか？

　アヌビスは耳を疑ったが、確かにそう聞こえた。

「まさか、あんたがトトか？」

　知恵の神がこんな子供だとは聞いていない。アヌビスは信じられないといった顔でトトを見下ろす。

「何？　信じられないような顔して。僕がトトじゃいけなかった？」

「いや、そういう訳じゃ……」

　もう既に嫌われている様な気がするが、さらにここで機嫌を損ねられたら情報を聞き出せなくなる。アヌビスは細心の注意を払って次の言葉を探した。

「僕の機嫌をとっても君の望む情報はあげられない」

　その言葉にアヌビスは目を見開く。

　声には出していない筈だ。

　心を読まれている？

　いや、まさかそんな事が——。

「そのまさかだよ。君の考えている事は全部僕に筒抜け」

　とんでもない能力をもった少年、もとい知恵の神にアヌビスは言い得ぬ恐怖を抱いた。

「君はヘカの呪いを解く為の情報が欲しい。僕はその情報を持ってる。教えてあげてもいいけど……ただ教えるっていうのもつまらない。」

　こちらの考えは筒抜けなのに、あちらの考えは全く読めない。彼自身の表情も乏しい為、余計に判断が付きづらかった。

「勝負をしよう」

「……勝負？」

　トトの提案にアヌビスは眉をひそめる。

「この勝負、君が勝ったら僕が持ってる呪いの情報を全て君にあげる。どう？　シンプルでしょ？」

　成程、これがセトの言っていた知恵比べというやつか。アヌビスは突如立ちはだかった壁に息を呑む。

　トトはさっそく机の上の書類と本を無理やり隅に追いやると、そこにマス目のついた木製の盤を置いた。

「セネトだ。君もやったことくらいあるでしょ？」

　勿論何度かプレイしたことはあるが、アヌビスにはそれよりも気になっている事があった。

「待て。それじゃ俺が圧倒的に不利じゃないか？」

　普通のボードゲームと言えど、トトが相手となるとその難易度は格段に上がる。むしろゲームとしては全く別物になると言っても過言ではない。彼は心が読めるのだから、こちらの手の内を明かしているようなものではないか。

「……じゃあやめる？」

　トトの言葉にアヌビスは戸惑う。恐らくこの情報を持っているのはエジプト神の中でも知恵の神であるトトだけだ。この勝負、受けなければ情報は得られず、セトに殺されて終わり。だとすれば、例え不利であっても受けないという選択肢はない。

　アヌビスは覚悟を決め、トトを真っ直ぐと見据えた。

「いや、受ける」

　トトは頷き、盤に駒を並べ始めた。その様子を眺めながらアヌビスは自分に言い聞かせる。

　このゲーム、運と戦略の二つの要素が絡んでいる。つまりいくら心を読もうと狙った目を出せなければ意味がない。大丈夫だ、勝算はある。

　セネトは縦三列、横十列の全三十マスのマス目を使って行われるボードゲームで、各プレイヤーは最初七つの駒を所持している。

　右上のスタートマスから一列目、三列目は左から右へ二列目は右から左へZの様に駒を進ませ、相手より先に自分の駒を全て右下のゴールに導いた方の勝ちという単純なルールだが、実はとても奥が深いのがこのセネトというゲームなのである。狙った目を出す運と、盤面を見てどの駒をどのように動かすかという戦略がものをいう。

「僕は白、君は黒駒だ。君が先攻でいいよ。——じゃあ、始めようか」

　トトは四本の細長い棒を机の上に投げた。これが所謂サイコロの目の役割を果たす。両面に紅白の色がついており、プレイヤーは白い面が出た数だけ駒を進めることが出来る。逆に全て赤面が出ると五マス進むことが出来るが確率的にはかなり低い。

「4」

　アヌビスが駒を進める。

「2」

　それに続いてトトも駒を進めた。

　3、1、2、4……

　出目的にはこちらが有利に進めている。幸先は良い。

「4。だけどそこには僕の守られた駒があるから移動できないね。残念」

　自分の出した出目の先に相手の駒があればその位置を入れ替えることができるが、守られた駒、つまり同色の駒が二つ以上並んでいる場合はそれが出来ない。

　移動できない場合は自動的に相手のターンに移行する。つまり相手が連続で行動出来る事になるのだ。

「そこに置くと思ってたよ。じゃ、先にゴールするね」

　戦略がことごとく阻止された挙句、運もあちらに味方しているようだ。その差はどんどんと開いていく。盤面を見てその戦況を把握し、先を読もうとするアヌビスにはやはり苦しい能力だった。

　アヌビスは目を閉じ、再び考えを巡らせる。

　こんな時あいつだったら——。

　ふとそんな考えが頭をよぎった。

　アヌビスが再び目を開けた時、その表情が微かに変化したのをトトは見逃さなかった。

　——何かいい考えでも浮かんだのか？

　再び心を読もうとして、トトは混乱した。

　心の声が聞こえなくなったのである。しかしトトの能力を無効化した者など未だかつて存在しない。この男一体何をしたというのだ。

「どうした。動かさないのか？」

　アヌビスに指摘され、我に帰ったトトは再び盤面に目を向けた。心など読めなくても問題ない。通常の勝負をすればいいのだ。

「水の家に止まったな。さあ戻るといい」

　トトの動揺をよそに、アヌビスはどんどん駒を進めていく。そこから面白いように戦況が変化していく。流れが変わったのだ。

　戦況が変わるとアヌビスの方にも徐々に運が向き始める。

「……俺の駒もあと三つだ。やっと追いついたな」

　気が付けば互いに持ち駒が一つずつとなり、盤面は最終局面を迎えていた。

「君は美の家ゴールまであと五マス。そして僕は二つの真実の家、あと三マスだ。マス目の数的には僕の方が有利だね。君は最低でもあと二ターン使ってゴールしなきゃならない」

「いや、まだ勝算はある」

　アヌビスが勝つには、ここで五を出すしかない。しかしその為には四本全てを赤面にしなければならないのだ。その確率は1/16。

　——最後は運、か。

　棒を握る手に汗が滲む。

「そんなの余程運がなきゃ——」

　アヌビスは自分の命を賭けた四本の棒を迷うことなく放り投げた。

「——まさか」　

　トトは目を見開き、その机上を凝視した。四本の赤い棒が重なり合う様にして落ちている。

「……俺の勝ちだ」

　アヌビスはその瞬間大きく息を吐き、糸が切れたように脱力した。

　まさか本当に五を出すなんて——。

　それに——。

　トトがそれ以上に驚いたのは途中から全く心が読めなくなった事である。

「君、一体何をしたの？」

　トトが睨むようにアヌビスを見ると、彼は真顔で答えた。

「何もしていない」

　その答えにトトはあっと声を上げる。

「君まさか何も考えず……。じゃあ一体どうやって駒を」

「——堪だ」

　何の迷いもなく放たれたその言葉にある日のホルスの言葉が重なる。

　トトは声を上げて笑った。

「まさか君からそんな言葉が出るなんて思わなかったよ。……それとも誰かさんの受け売り？」

「……まあな」

　トトは小さくため息をつき、言った。

「全く、面白いね君達は。兄弟そろってここへ来て僕を負かすなんてさ」

　その言葉にアヌビスははっとしてトトを見る。

「——君がアヌビスだね。ホルスの大切な人」

　大切な人——。

　そう言われてアヌビスはむず痒いような何とも言えない気持ちになった。

「……あいつがそう言ったのか。」

「ううん。心の中でそう聞こえたんだ」

「——そうか」

　トトは手招きをして言った。

「話してあげるよ。呪いの秘密」