第31話𓃀𓄿𓃭𓄿〜魂〜
ここサッカラは下界において
神殿を出たあの日、アヌビスはキオネに遺体を託し、彼の娘に接触するよう指示を出した。彼女に遺体を引き渡し、また彼女自身が埋葬地に選んだこの場所で落ち合う事になったのだ。
ヘリホルに案内され、アヌビスはマスタバの内部に足を踏み入れた。この中の一室にメリモセは埋葬されている。
「父は——偉大でした。けれど、取り憑かれてしまった。己の心に潜む闇に」
腕に抱えた供物を壇上に並べ、ヘリホルは静かに言った。
「待て。メリモセは——」
「ええ、分かっています。全ては私の為。私も同じ立場ならきっと父と同じ選択をしたでしょう」
ヘリホルはゆっくりと振り返り、どこか憂を帯びた笑みを浮かべながら言った。
「本当に父に会えるのですか?」
「ああ。だが呼び出せるのは彼の
後悔のないようにとアヌビスは念を押した。伝えたい事があるなら正直に伝えるべきだと。
アヌビスは元々、この力を事件解決の為に使う筈だった。当事者である彼からもう一度話が聞ければ、その証言が有力な手掛かりになるかもしれない。だが彼に家族がいるなら、最期に別れを惜しむ時間があってもいいだろう。肉体を損傷しており、加えて現世で罪を犯している彼はアアルの野には行けないかもしれない。それが一生の別れになるかもしれない彼らに与えるアヌビスなりの慈悲だった。
アヌビスは一歩前に進み出ると、メリモセが眠る石棺の前で膝を折る。目を閉じアヌビスが呪文を唱え始めると、偽扉(注)から何かが姿を現した。鳥の胴体に人の頭を持つ不思議な生き物。メリモセの
「メリモセ。少しの間付き合ってくれるか?」
その言葉に彼はゆっくりと頷き、二人に向き合うように石棺の上に止まった。そしてアヌビスの背後に佇む娘の姿を目にした彼は目を細める。
「はい。私にはその義務があります。犯してしまった罪。その行いによって傷ついた多くの仲間達に懺悔を」
メリモセは彼らに思いを馳せるようにゆっくりと目を閉じた。
「俺がお前に聞きたい事は三つ。一つ目は神官達をどこへ誘導したのか、二つ目はセクメトの狙いについて。三つ目は——」
「どうして……どうして私を捨てたの!?」
アヌビスの言葉を遮り、ヘリホルが突然声を上げた。振り返ったアヌビスの目に怒りに震えた彼女の姿が映る。
「ヘリホル、私は——」
「言い訳はやめて。どれだけ言葉を並べようとその行いこそが私にとっての真実。数年間私がどれだけ孤独を感じていたか貴方に分かる?」
娘から初めて打ち明けられた思いにメリモセは沈黙し、やがて何かを決意したように天を仰ぐ。
ふわり、とヘリホルの前で何かが舞った。パピルス紙。それも抱えきれぬ程に長く、床に山を作ってしまう程だ。
そこに書かれていた文章にヘリホルは息を呑む。
「これは――」
父の字で書かれたそれは日の元に現れる為の書。下界において死者の書と呼ばれる葬祭文書だった。これを持つ事で冥界にて行われる裁判を逃れる事が出来るいわば免罪符になる。
「私は病弱だったお前の事が心配だった。何をしている時もお前の顔が頭をよぎった。私は毎日神に祈った。お前の体が丈夫になるように。だが……それが結果としてお前を苦しめ、そして……」
メリモセは改めて娘の顔をじっと見据えた。
「今の今まで父親らしい事もしてやれなかったが、お前を愛していたのは紛れもない事実だ。そして今度こそ幸せで何不自由ない生活がお前を待っている」
父が自分の為に必死に働いている事も、心から愛してくれている事もヘリホルには分かっていた。でなければ自分は今ここにいない。父の全てを犠牲にして生かされた自分。
もう十分だろう。
ヘリホルは父の書いた死者の書を見つめ、深く息を吐く。
「先に行っているわ。待っているから。アアルの野で」
そう言って砂のように消えていく彼女をアヌビスはただ見つめている事しか出来なかった。
彼女は跡形もなく目の前から姿を消した。アアルの野に行く為に。それは言うまでもなくこの世での生涯を終えた事を意味していた。
「どういう事だ、彼女は――」
「私が殺したのです」
唖然とするアヌビスに追い打ちをかけるようにメリモセは言った。
(注)扉に似せた壁。ここから死者の魂が出入りし、供物を受け取ったり会話が出来るとされている。
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