第25話𓍯𓈖𓅓𓇋𓏏𓍢〜隠密〜
「部屋の掃除、ですか……。」
アヌビスは思わずセトの言葉を反芻した。
「不満か?」
「いえ、そういう訳では——。」
一体どんな命が下されるのであろうかと身構えていたアヌビスは部屋に戻るなりベッドに倒れ込んだ。
幸いリネン類は全て取り換えられているようだが、それでも室内はかなり埃っぽい。
部屋の掃除など神官がやる事だろうに、そんなに人手が足りないのか?
それとも、まだ信用されていない?
確かにセトは必要以上に神官を置く事を嫌い、この神殿にも最小限の人数しかいない。
理由は一貫して「うざったいから」であるが、実は逆もまた然りなのである。
皆保身から付き従ってはいるが、主君の事をよく思っていない者が殆どだ。
というのも、アヌビスはここへ来てから神官達にセトについて聞いて回っていた。
勿論、細心の注意を払い、話を聞く者の選別を行った上で、だ。
ここで告げ口でもされたらそれこそ信用問題である。
しかし一人だけ、セトに絶対的な忠誠を誓っている男がいた。無論セトからの信頼も厚く、右腕として神官の最高位に就いている。
しかしこの男、なかなかやり手であり、取り入ろうにも人一倍警戒心が強い。
さらに、あろうことか半神であるアヌビスを異様に警戒し、敵意をむき出しにしている。
これは一筋縄ではいかないとアヌビスも手を焼いていた所だ。
エゼル——まずは奴を何とかしないとな。
アヌビスはベッドから起き上がりキオネを呼んだ。
「あの2人の様子を窺え。ただし深追いはするな。万が一気付かれそうになったら何を置いても戻って来い。——いいか、勘付かれたら終わりだ。」
「御意。」
緊迫した空気の中キオネに慌てる様子はなく、いつも通りの返事をして出ていった。
さて、俺は言われた通り、部屋の掃除でもするか。
アヌビスは部屋の掃除と称して辺りを物色し始めた。
元々違う神の神殿であったなら、その形跡が残されていても不思議じゃない。わざわざこの神殿に引っ越した理由が他にもある筈だとアヌビスは踏んでいた。
ふと机の下を覗き込んだアヌビスはその床に何か落ちているのに気がついた。それを拾い上げ、まじまじと見つめる。
何かの装飾品だろうか。汚れてはいるが、エジプトでは
ホルスもアヌビスもあまり着飾る方ではないが、それなりの身分の者であれば皆装飾品の一つや二つ身に付けているものだ。
当のアヌビスにもこれが何を示しているのか容易に見当が付いた。
エジプトでは、成人を迎えた者に祝いとしてピアスを贈る風習がある。つまり持ち主は成人しており、この錆と汚れからしてそれが何年も前である事を示している。
しかし不思議な事にいくら探しても、もう片方が見当たらない。
「アヌビス様。」
突然耳元にキオネの声が響いて、アヌビスははっとした。
「随分早いな。何かあったのか?」
「いえ、実は——。」
それを聞くなりアヌビスは目を見開いた。
アヌビスは地下道の入り口に立っていた。しかしその扉は固く、腕力ではびくともしない。恐らく中から
キオネが言うにはここを通った際、一瞬人の声がしたと言うのだ。それに反して気配はおろか、人影も見当たらなかったという。
そういえば、神官達に聞き込みを行っていた際にもそんな噂を耳にしたことがあった。
何でも、深夜になるとこの地下道を頻繁に出入りする影を見かけるのだとか。神官達はそれを心霊の類だと気味悪がっていたが、キオネが言う事と照らし合わせると本当に人が出入りしているのかもしれない。
——こんな地下道に人が住んでいるとでもいうのか?
ここは実体がなく、どこでもすり抜けられるキオネに任せる方が無難だが、にわかには信じがたいその言葉に自分の目で確かめたいという好奇心が勝ってしまったのである。
それにキオネには2人を見張る役目もある。やはり二手に分かれた方が効率的だ。
神官達の噂が本当なら、深夜再びここを訪れれば忍び込むチャンスがあるかもしれない。
アヌビスはそう思い、その機を伺う事にした。
一旦部屋に戻ったアヌビスは床に落ちた髪を見るなりため息をついた。決して掃除が行き届いていなかった訳ではない。
念には念を、アヌビスはここを出る際いつも自分の髪を一本抜き、扉に挟んでいた。それが落ちているという事はそういう事である。
鍵は掛けていた筈だが、一体誰が侵入したというのだろう。
神官が持っている訳はなし、可能性があるとすればセトか、あるいは——。
これは、なかなか骨が折れる。
アヌビスは敵地に乗り込む事がどういう事か、身をもって知るのだった。
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