第30話𓍯𓈖𓅓𓇋𓏏𓍢〜隠密〜
「部屋の掃除、ですか……」
アヌビスは思わずセトの言葉を反芻した。
「不満か?」
「いえ、そういう訳では——」
一体どんな命が下されるのであろうかと身構えていたアヌビスは部屋に戻るなりベッドに倒れ込んだ。
だがこれでいい。
自分にはここでやらなければならない事がある。
信用されていないのは百も承知だ。泳がせて粗が出るのを待っているのかもしれない。その一挙手一投足まで監視されていると思った方がいいだろう。
既に勝負は始まっている。上手く立ち回らねば。
アヌビスは口元を押さえ、咳をするふりをしてキオネに話しかける。
「準備は出来てるか?」
「はい。メリモセの遺体は無事、彼女の元へ渡ったようです。今夜、例の場所で落ち合うと彼女から連絡が」
「そうか。分かった」
「……幸運を祈ります」
キオネとの会話が途切れ、アヌビスは立ち上がる。
セトがこの王宮に移った事は大きな誤算だった。以前の王宮であればその構造、部屋の位置、周りの地理までも完璧に覚えていたが、ここは部屋の位置どころか、この王宮の位置すら把握できていない。何より地下を通ってきた事が一番の原因だろう。
今夜、か。
外は既に日が沈み始めている。アヌビスは焦りを感じずにはいられなかった。
何もかも分からないこの状態でここから抜け出し、彼女と落ち合うにはどうすればいいか。悠長に考えている時間すらない。
突然、下の方からカサカサと物音がしてアヌビスは振り返った。その思考を遮ったのは一匹のネズミ。
またか……。
一体どこから入り込んだ?
アヌビスはうんざりしながらそのネズミを目で追った。だが夜行性であるネズミは光で目が眩んだのか、地面と床の間の小さな隙間に体をねじ込ませ、元いた場所へ戻ろうとしている。
いや、待て。この穴——。
もしかしたらさっき通った地下通路に通じているかもしれない。
アヌビスはすぐにキオネを呼び戻し、命じた。
「交代だ」
アヌビスはすぐさまネズミの影に溶け込むと、後ろを振り返り、ベッドに腰掛ける自分の姿を確認した。
ネズミと共に部屋からの脱出に成功したアヌビスは、彼らしか通れないような狭い道を抜け、読み通りあの地下通路に到達した。
アヌビスはそこでやっと本来の姿に戻る。
さて、ここからどうするかが問題だ。
この網の目のように広がる通路を闇雲に歩いていては間に合わない。何より、もうこいつらと同じ空間にいたくなかった。
アヌビスは目の前にぶら下がっていたコウモリを見、閃く。
コウモリは
アヌビスは周りに警戒しながら進み、分かれ道に差し掛かった所で目を閉じた。
感覚を研ぎ澄ませ、試しに舌を鳴らしてみると、その音がわずかに反響するのがわかる。アヌビスはその反響音を頭に刻むと、片方の道へ進んだ。すると行き止まりや物置のような小部屋、その一つ一つにわずかな音の違いがある事に気づく。
徐々に選択肢を絞り、何本目かの分かれ道に立った時、アヌビスは気付いた。片方の道が今まで聞いた音とは微妙に異なっている事に。
アヌビスは目を開け、迷わずその道を進む。
空気が変わった。全身に風を感じ、目の前に外の景色が見えた時、アヌビスはほっと胸を撫で下ろした。
深く息を吸い肺に新鮮な空気を吸い込む。陰湿で息が詰まりそうな王宮、そして緊張感から解放され、アヌビスの心に暫しの平穏が訪れた。
だがまだ終わりじゃない。彼女と落ち合わなければ。
アヌビスは辺りを見回し、目印になるような建物を探した。
「あの……」
突然誰かに呼び止められた気がして、アヌビスは声のした方を見る。
「貴方がアヌビス様、でしょうか?」
そう聞いてきたのは神官らしき格好をした女性だった。全く見覚えのない顔だが、何故か名前を知っている。
「あんたがメリモセの娘か?」
アヌビスが聞くと女性は頷いた。
「はい。ラー神の神官をしておりますヘリホルと申します」
深々と頭を下げ、彼女は続けた。
「例の場所で、と約束していたのですが貴方の従者様が迎えに行って欲しいと仰って……」
「アヌビス様が出られたそこは
耳元でキオネの声が響く。彼女の働きは時にアヌビスの想定を遥かに超える。だがその性格上、最低限の事しか口にしない為、彼女がどのように動いているか、主のアヌビスですらその詳細を把握する事は出来ないのである。
「メリモセの事は本当に申し訳なかったと思ってる。俺が神上がっていれば或いは……」
アヌビスの言葉にヘリホルは首を振る。
「謝らないでください。例えどんな事情があろうと悪事に加担する事は同じく悪に落ちたも同じ。報いだとは思いたくありませんが、これも運命だったのでしょう」
違う。メリモセは被害者だ。
否定しようとしたが、彼女の顔を見た瞬間アヌビスは言葉を詰まらせる。
彼女は今父の死を懸命に受け入れ、昇華しようとしているのだ。その思いを否定するような事をアヌビスは言えなかった。
「お互い時間は限られているようですから、さっそく参りましょう」
彼女は込み上げる思いを押し殺すように拳を握り、歩き出した。
(注)貴族などの上流階級が葬られた共同墓地
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