第32話𓄿𓇋𓊃𓍯𓍢~愛憎~
「ヘリホルは昔から病弱だったにも関わらずそれをあまり表に出さない子でした。多忙の私に迷惑を掛けまいと言いたい事も言えず、全て心に押し留めていたのでしょう。私はそれを知っていながらあの子に甘え、仕事に没頭していました。全てはあの子の為だと自分に言い聞かせて。ある日夜遅く部屋に戻ってみると、娘はすでに冷たくなっていて……。私は絶望しました。医者の話では高熱が原因だと。私は娘が苦しみ、息を引き取るその時まで神官という仕事に取り憑かれていたのです」
彼女の捨てた、という言葉をアヌビスは思い出した。心配を掛けまいと自分を押し殺し、生きてきた結果がこれだ。自分は愛されていないのではないか。そんな絶望の中息を引き取ったに違いない。アヌビスは自然と彼女の境遇を自分と重ね合わせていた。
「それから何年も、私は悔やみ続けました。彼女の苦しみ、痛み、彼女の声に耳を傾けていればこんな事にはならなかったと」
メリモセの懺悔をアヌビスは静かに聞いていた。神官である前に彼も一人の人間なのだ。アヌビスはそう実感した。
「あれは事件が起こる数日前の事でした。そんな私の前にセクメト神が現れたのです。彼女は言いました。『自分の父、ラーはこの世に未練のある人間であれば何度でも蘇らせる事が出来る』と」
死んだ人間を蘇らせるだと?
アヌビスは眉をひそめ、嫌悪感を露わにした。百歩譲ってそれが可能だとしても、自然の摂理に反するような行いを神自らが行うなどあってはならない。
「それがどのような意味を持ち、そして結果をもたらすのか、冷静に考えれば分かる事ですが、当時の私はもう一度娘に会えるかもしれないという希望で胸が一杯でした。そして生前話した通り、私は娘を取るか仲間を取るかという二つの選択を迫られたのです」
「娘を人質に取られたと、そう言っていたな」
「はい。ですがあれは死んだ娘を蘇らせるか否か、という選択だったのです」
確かに、娘を蘇らせるか諦めるか、人質という表現もあながち間違いではない。そうしてラーの力で蘇った娘は彼の元で神官として仕える事になった、という訳か。
「結局セクメトはお前に何をさせようとしていたんだ? あの女の話では行き先はお前に委ねたと言っていたが」
「私がセクメト神から受けた指示は二つ。一つは神官達を宿舎から連れ出し、太陽神ラーに祈りを捧げる事です」
であれば行き先は限られている。ラーの神殿かその周辺、恐らく原初の丘辺りだろう。
「指示するまでもなかった、という事か。なら今もそこに留まっている可能性はあるな。だが太陽神が何故今更祈りを必要とする?」
「器が必要なのだと、そう言っていました。彼女が半神狩りをするのはその為だと」
「器?」
「恐らく自身の
何ともきな臭い話だ。至聖所での事件以来――いや、父が殺された日からずっと自分は事件の渦中にいる。アヌビスは自身の境遇を嘆かずにはいられなかった。
「で、二つ目の指示は何だ」
アヌビスが急かすとメリモセは急に言葉を詰まらせる。
「……どうした?」
「アヌビス様、申し訳ありません。……至聖所の結界を解いたのは私なのです」
「何だと……?」
アヌビスは耳を疑った。国内随一の魔術師といわれるイシスの結界が人間に破られる筈がない。
「ですが、実際に解いたのは私ではありません。選ばれた者のみが入室を許される神殿内で最も神聖な場所。イシス様の結界も一際厳重に張られていましたから、人間の私が到底破れるものではない。ですが一日三回、必ず通うあの場所で私はその結界の仕組みをいつの間にか理解していたのです」
「その仕組みを誰に教えた? セクメトか?」
アヌビスが問い詰めるとメリモセはその名を口にした。
「ネフティス様です」
***
あれは一体どういう事?
イシスの頭は混乱していた。あれは本当にバステトなのか。その疑問がイシスの頭を支配する。その姿や言動だけでなく、纏う空気でさえもが以前の彼女のものとは異なっていた。
居場所をなくし、その存在ごと葬られたネフティスと共にイシスは自分の神殿へと戻ってきた。ホルスはまだ戻っていないようだが、何やら宿舎の方が騒がしい。
「一体そこで何をしているのです?」
二柱がそこへ向かうと一人の神官が顔を上げ、深々と頭を下げた。
「ご不在の間に失礼致しました。私共は今、バステト様の命で神殿周辺の調査を行っているのです。……お邪魔でしたでしょうか?」
「いえ、何か進捗があれば教えてください」
豹変したバステトの影を振り払うかのようにイシスは踵を返した。すると彼女は突然何かを思い出したように声を上げる。
「これをお渡しするのを忘れていました」
神官の手に握られていたのは一片のパピルス紙だった。
「これは?」
「渡しそびれてしまったと、バステト様よりお預かりしていました。宿舎に飾られていたオシリス様の像から出てきたものです」
イシスはそれを受け取るとさっそく中を開く。
「これは――」
走り書きのようなその文字にイシスは見覚えがあった。これはアヌビスの字だ。
憎しみのこもったその文面にイシスの背中に冷たいものが伝う。
「あの子もしかして――」
深々と頭を下げ、宿舎へと戻っていく神官の背中を見送りながら、イシスは彼の思惑に気付き、危機感を募らせた。
「ネフティス、あの子は――」
振り返ろうとしたその瞬間、まるで鈍器で殴られたような衝撃を受け、イシスは頭が真っ白になった。
気を失った姉を見つめ、ネフティスは呟く。
「ごめんなさい……姉さん。私はまだあの男に――」
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