第26話𓃀𓇋𓎡𓍯𓍢〜尾行〜
その日の夜、アヌビスは部屋を抜け出し、至聖室の柱の影から地下道の入り口の様子を伺っていた。
噂が本当ならここで見張っていればもうじき姿を現す筈だ。アヌビスは息を殺し、標的が現れるのを待った。
「あ、あの……。」
すぐ傍で気の抜けた男の声がして、アヌビスは思わず声を上げそうになった。全く気配を感じなかった事にも驚きだが、そこにいた男を見てアヌビスはより警戒心を強めた。
見るからに気の弱そうな老年の男で、頬は痩け、いかにも不健康そうだが、その目には不思議と光が宿っている。
しかしその装い自体は神官のものに間違いないのだが、セトの神官のものではない事に気づく。
見るからに怪しい男にアヌビスは眉をひそめた。
「お前、この神殿の者ではないな。どこから入った?」
アヌビスが問うと、男は不気味に笑った。
「そ、それは貴方も同じでしょう。」
「——どういう意味だ。」
まさか、バレている訳ではあるまい。
アヌビスは一瞬身構えたが、男が降参した様に手を上げるのを見て仕方なく剣柄から手を引いた。
「お前は何者だ? 何故ここにいる?」
それに男はおどおどしながら答える。
「お、お待ちください。私は貴方を助ける為にここまで……。」
「何だと?」
アヌビスは訳が分からず男を見やる。軟弱そうなこの男が自分を助けに来たとは到底信じ難い。助けが必要なのはむしろこの男の方ではなかろうか。
「わ、私はバステト様の使いでここまで来たのです。あの方は貴方を酷く心配しておられました。」
バステト神が何故俺を?
アヌビスには縁もゆかりもない女神が自分の事を気に掛ける理由が分からなかった。
するとその胸の内を察するかの様に神官は言った。
「あ、あの方は慈悲深いお方。困っている方を放って置けないのです。アヌビス様、貴方もそうなのでしょう?」
神官の言い分にアヌビスは呆れた様にため息をついた。世話好きにも程がある。
「俺は困ってもいないし助けて欲しいなんて言ったつもりは……。」
「いいえ。貴方が理由もなくセトの下につく訳がありません。」
男はアヌビスの言葉に被せる様に今度は
何故こうもはっきりと言い切れる?バステトの神官が俺の何を知っているというんだ。
男は自身を疑う目にも臆する事なく続けた。
「イシス様もバステト様も貴方の事を案じております……。どんな事情をお持ちか分かりませんがどうかその事だけは胸に留めておいてくださいませ。」
そう言って男は深々と頭を下げた。
——イシス。
その響きにアヌビスは一瞬胸が痛むのを感じたが、その思いを打ち消す様に首を振った。
もう、捨ててきたものだ。
神殿も、家族も全て。
全てはあの男を殺すために——。
「……母は生きているのか?」
「ええ。勿論。」
神官が頷くとアヌビスは微かに微笑んだ。
「……そうか。」
よかった、と呟いてアヌビスは再び扉の方に目を向けた。
「ところで、お前が俺を裏切らないという証拠はあるのか? それを証明してもらうまで俺はお前を信用する事が出来ない。」
「そ、それについてですが——。」
男が口を開いたのと同時に、広間の入口の方から微かな足音が聞こえてくるのが分かった。
アヌビスは思わず口に人差し指を当てる仕草をした。
これはホルスが幼い頃よくやっていた仕草である。彼が勝手に作ったと言っても過言ではない所謂身内ネタだが、神官はその意を汲んだ様に口を閉じた。
薄暗い広間に蝋燭の光が2つゆらゆらと揺らめきこちらに近づいてくるのが見えた。
あれは——テフヌト神?
アヌビスが目を凝らし、見たその姿は間違いなく曽祖母の姿だった。
意外な人物の登場にアヌビスは戸惑う。
その後に続いてもう1人、曽祖母に付き従う様にして歩く人影が見える。しかし頭から足先まで全身を布で覆っており、その姿を窺い知ることは出来ない。だが身長から察するに、男である事は間違いないだろう。
「——行くぞ。」
アヌビスは前を警戒しながら手招きした。
「わ、私もついて行って宜しいので?」
男が戸惑う様にこちらを見る。
「そこに居座ってバレでもしたらどうする?外の見張りは眷属に任せてある。」
実の所、尾行するのに人手が足りなかった為、好都合ではあった。対象が2人となると1人で追うのは尚更危険だ。二手に別れられた場合、見失う可能性もある。
「助けに来たと言うなら足手纏いになるなよ。それにまだお前を信用した訳じゃないからな。」
アヌビスは釘を刺す様に言って忍び込む機を伺う。
「こ、心得ております。」
万が一裏切られたとしてもこの神官1人くらいなら容易に制裁できる。標的にバレなければの話だが。
——今だ。
アヌビスは入り口の扉が閉まる直前、その隙間に体を滑り込ませた。神官も難なくその後に続く。その老体に似合わぬ身軽な体捌きにアヌビスは驚いた。
扉が閉まると2人は両端の柱にそれぞれ身を隠す。幸い地下道には出口まで一定間隔で柱が立ち並んでおり、身を隠すには打ってつけだった。
標的2人が何か話している。アヌビスは一定の距離を保ちつつ、その会話に耳をそばだてた。
「……それであの方を神殿に招き入れたと。で、その後どうなったんです?」
「最初は話し合いで何とかなると思ったのだが、あの子がそう簡単に納得する筈がない。血の繋がりはあるにしろ、弟にはほとほと愛想が尽きているだろうからな……。話がいつまでも平行線で、これでは埒が明かないと思ったのだ。」
「だから手に掛けたと……?」
「いや……最後の最後で殺しそびれてしまった。例の火事のせいでな。」
会話の詳細は掴めないが、「火事」というキーワードにアヌビスは眉を上げた。
エジプト中の神が駆り出された事件だ。例の火事と言えば先日起きたものと見て間違いないだろう。
「成程。では標的は皆同じ、という事ですね。」
男はそこまで言って急に足を止める。
「——ところで。」
気づかれたか——?
2人の顔に緊張が走る。
アヌビスは剣柄に手を掛け、身構えた。
「……どうかしたか?」
怪訝な顔をするテフヌトに、男は思い直したように首を振る。
「……いや、問題ないでしょう。どうせ生きて帰れやしません。」
一瞬、男と目が合った気がした。
布の下から覗く冷たい瞳が2人を嘲笑うかのように見下ろす。
「——ッ」
アヌビスは一瞬何が起こったのか分からなかった。
意識が朦朧とする中、強烈な胸の痛みだけが頭を支配する。
薄れゆく景色の中でアヌビスが最後に見たのは、幼い頃母の代わりによく世話をしてくれた神官の顔だった。
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