第34話𓅓𓇌𓉔𓇌𓈖〜メヘン〜
「いってえ……」
ホルスは強打した腰をさすりながら呟いた。だが空中から落下した割にその衝撃は微々たるもの。不思議に思ったホルスが視線を落とすと、薄紅色の薄い膜が天幕のように全身を支えていた。命拾いしたとはいえ、謎の粘液で覆われたそれに嫌悪感を抱いたホルスはそこからすぐに脱出し、辺りを見回す。
右側には壁、左側には一本道が続いている。まるで洞窟のようだ。ホルスはトトの研究室を思い出す。
彼は今何をしているのだろうか。これが意図的なものだとしたらその思惑は一体何だ?
砂漠での彼の言葉をそのまま受け取るならこれは神上がる為の修行という事になる。いずれにせよこの不気味な空間から抜け出す事が先決だ。
ホルスは意を決し一本道を進んでいく。風の音一つしない静寂の中歩みを進めていくうち、ホルスはずっと感じていた違和感の正体に気付いた。ここには人間どころかあらゆる生物の気配がまるでない。唯一遭遇したあの青年にさえ生気を感じる事が出来なかった。
あれはまるで――。
拭い切れぬ違和感と不安に苛まれながらホルスはとにかく歩を進めた。すると目線の先に何かが見えてくる。
賽子代わりに四本の棒を投げ、獅子の駒と円柱を交互に動かすトトはあっと声を上げた。
「さっそく一つ目の関門だね。ホルス、君は運がいいよ」
二つの駒が隣り合い、トトは無邪気な笑みを浮かべる。運がいいと言ったのは、それらが対峙する為に間のマス数とぴったり同じ目を出さなければならないからだ。だが獅子の駒は試練を表す。吉か凶か。いずれにせよ神上がり、一刻も早く力を付けたいホルスにとってそれは打ち破るべき壁の一つだ。
目の前のそれが扉だと分かるとホルスはさっそく取っ手に手を掛け、開けようと試みる。だが
「不完全なる者よ。ここを通りたくば我の名、そして聖なる呪文を唱えよ」
突然響いたその声にホルスはきょろきょろと辺りを見渡す。だが声の主はどこにも見当たらない。
「名前? 姿も見えねえのにどうやって答えろって言うんだ。それに呪文なんて知らねえ」
ホルスはあっけらかんとした様子でそう答えた。
「答えられぬならお前はここで野垂れ死ぬだけだ。それでも私は一向に構わない」
「なあ、ここは一体どこなんだ? 俺にはそれすら分からねえんだよ」
だがいくら待っても返答はない。こちらの質問には答える気がないようだ。
ホルスは途方に暮れた。アヌビスならともかく、魔術等そういう類のものに一切触れて来なかったホルスには答えられる筈もない。
『サウト・セミィト(沙漠の墓地を守護するもの)よ。ラーのためにあなたの扉を開けよ。アケティ(地平線にあるもの)のためにあなたの扉を開けよ』
呆然と立ち尽くすホルスの隣にいつの間にか見知らぬ女が立っている。まったく気配に気づかなかったホルスは声も出せず、その姿をまじまじと見つめた。
「さあ、呪文は唱えたわ。扉を開けなさい」
「……フン。まあいいだろう」
少々不満げな声が響き、目の前の巨大な扉がゆっくりと開かれる。
「行きなさい。貴方にはやるべき事が山程あるでしょう」
女はそう言ってホルスを扉へと促した。
「助かった。俺は——」
「貴方の事は知ってるわ。ホルス。さあ早く行きなさい」
女は背中を押し、閉じかけた扉にホルスの体を押し込める。
「待て、俺はあんたの名前を聞いてない」
「ウジャトよ」
彼女が名乗った後扉はすぐに閉まり、それ以上話す事は叶わなかった。
ウジャト。
ホルスはその名前に聞き覚えがあった。あれは確か……。
ホルスははっとした。川で会った父の最後の言葉だ。ウジャトの目。父はこの目の事を確かにそう言った。
じゃあこれは彼女の目なのか?
でも何故?
事情を聞こうにも本人はすでに扉の外。名前を呼んでみたが返事はなかった。
そして背後から聞こえてきた不気味な呼吸音がホルスの意識を現実へと引き戻す。まだ脅威は去っていなかった。そう気付いた時には敵はすでに牙を剥いていた。
その右腕に
「正体は蛇かよ」
蛇を狩る場合、一切躊躇してはならない。
動きが素早い奴らは一瞬の隙をついて攻撃してくる。これはホルスが狩りで身をもって学習した事だ。だが何度も噛まれ、耐性がつく前からホルスは元々蛇の毒には強かった。蛇によってその毒性に違いはあれど、最低限の処置を行い数時間安静にしていれば命に関わるような事はなかったのである。
ホルスは扉を背にして座り込み、
この悪寒と冷や汗が収まるまで大人しくしていよう。もちろん、今度こそ警戒は怠らないように。
出典元 松本 弥 図説古代エジプト誌 神々と旅する冥界 来世へ 弥呂久 2021年 後編 p56.57
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