第35話𓋴𓇌𓈖𓊪𓍢𓎡𓍢~潜む者~

 脱力し、呼吸を整えながらホルスはここに来る前、研究所でのトトとの会話を思い返していた。


「君は誰かと思考や感情を共有した事はある?」

 唐突な質問にホルスは困惑した。


「……実は時々、君の心が読めない事があるんだ。まるでもやがかかったみたいに」

 意外だった。万能に見える彼にも出来ぬ事はあるのだ。


「いや、それはお前にしか出来ない事——」

 言いかけて、ホルスははっとした。

 

 いや、ある。何度も。

 誰とも知れぬ記憶、そして感情。ふとした瞬間に自分ではない誰かが干渉してくるあの感覚。まるで自分の中にもう一人の自分がいるみたいに。


「僕のこの能力はあくまでも自分の意思で相手の思考や感情を読む。けどホルス、君のは違うよね?」


 その通りだ。それは突然、自分の意思に関係なく流れ込んでくる。だが言い当てられた事よりも遥かに意外な事実がホルスを驚かせた。


「心外だな。心を読むと言っても常にって訳じゃない。あくまでもだよ。そもそも他人の心にそこまで興味ないし」


 だがそれは彼の匙加減。許容範囲だって全て彼の感覚に委ねられているのだ。その証拠にトトは眉間に皺を寄せ、不快感を露わにしている。


 これも読まれているな、とホルスは思った。少なくとも自分に関してはその殆ど見透かされていると思っていいだろう。だが当初の通り、その心中が殆ど表に出てしまうホルスにとって思考も言動も変わらない。見られて困るものでもなし、何の問題もなかった。


 時々分からなくなる。今感じているこの感情、思考、記憶、それらが本当に自分のものなのか。そうじゃないとしたら一体誰の——。

 

「さて、休んでるとこ悪いけど、次の試練だ」

 トトは再び並び合った二つの駒を眺め、笑った。


 目を閉じ、物思いにふけっていたホルスは体に感じる空気がガラリと変わったのを感じた。加えて全身を包む熱気に異変を感じたホルスは恐る恐る目を開ける。


「何だ……これ」

 ホルスは絶句した。先程まで地続きだった筈の地面は抉れ、崖の下には火の海が広がっている。目の前に一本の橋が架かっているが、木材を切り出しただけの簡素なものでこの体を支えるには心許ない。加えて幅は片足分程しかなく、渡るには相当の技術と覚悟が必要だった。そして最もホルスを震え上がらせたのは、燃え盛る炎の中で悶え苦しむ人間の姿だった。彼らは悲痛な叫び声を上げ、皆助けを求めるように腕を伸ばしている。


「助けようとは思わぬ事だ。彼らはこの世で罪を犯し、じきに消滅する運命。アアルの野にも行けはしない。それよりお前は自分の身を案じた方が良い」

 

 突如響いたその声に呼応するかのように目の前の橋が黒く変色し、端の方から徐々に朽ちていくのが見える。早く渡り切らなければあの人間と同じ運命を辿る事になるだろう。


 迷っている暇はない。 

 ホルスは全身を包む緊張感と熱気に晒されながら慎重に足を踏み出した。感覚を研ぎ澄ませ、体の軸をぶらさぬよう両腕でバランスを取りながら一歩、また一歩と慎重に歩を進める。


 そうしてゴールが近づくにつれ、ホルスは不思議な感覚に捉われた。人々の断末魔、そして足場が朽ちていく音。耳障りだったそれらの音が一切遮断され、聞こえるのは自身の息遣いだけだ。気の狂いそうな恐怖は取り除かれ、ホルスは無心で歩を進めた。


「しまっ――」

 ゴールまであと一歩という所だった。一瞬歪んだ視界がその足元を狂わせ、右足を滑らせてしまったホルスはそのまま猛火の中へと落下していく。


 終わった。そう思った時、ホルスは急に体が軽くなったのを感じた。一瞬、天に召されたのだと思ったがそうではなかった。


 翼が復活していたのだ。ホルスは翼を羽ばたかせ、無事崖の上へと降り立つ。ほっと胸を撫で下ろすホルスの前に一枚、漆黒の羽が舞い落ちた。だが辺りを見渡してもそれらしき生物は見当たらない。そもそもここに生者はいない。一連の状況からホルスが導き出した答えだ。であればこれは――。


冥界ドゥアトで力が使えるなんてあり得ない。一体どういう事だ?」

 トトは目の前で起こる一連の出来事に困惑せざるを得なかった。


「でも僕の読み通り極限の経験がホルスの体に何らかの変化をもたらしたのは確かだ」

「ではあやつは新たな力を開花させたという訳か」

 ベスは腕を組み、感心したように頷いた。


「……いや、神の力なんかじゃない。これはもっと邪悪な力だ」


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