第8話𓉔𓇋𓎼𓇌𓎡𓇋〜悲劇〜
ホルスの頭に無数の記憶が蘇る。これが俗に言う走馬灯というものなのだろうか。動揺するホルスの耳に断末魔のような叫び声と、脳裏には人間の遺体が無数に積み重なる悪夢のような光景が映し出される。それらは自分の記憶とは明らかに乖離していた。
「ぺト、やめなさい」
突如凛とした声が闇夜に響き渡り、辺りは一瞬にして静寂に包まれる。同時に目と鼻の先に感じていた気配が遠のいていくのを感じた。
何だ……?
ホルスが身を固めたままそっと目を開けると、目の前に見知らぬ男が立っていた。
「随分遅いじゃねえかセベク。お陰でこいつが死ぬ所だったぞ」
「申し訳ありません。野暮用に事の他手間取ってしまいまして」
セベクと呼ばれた男はそう言って丁寧に頭を下げた。その立ち振る舞いや仕草からはどことなく気品を感じる。
月に照らされた顔は青白く、切長の目は神秘的な雰囲気を醸し出している。どこか儚げで女性的な雰囲気を持つこの男に、ホルスは野生的なクヌムとは真逆の印象を受けた。
「……どういう事だよ?」
一人状況がまったく理解できないホルスは二人を問い詰める。何だか狐につままれた気分だ。
「私はセベク。ナイル川を守る水神です。そしてこの子はペトスコス。私の眷属です」
彼はセベクの傍ですっかり大人しくなり、顔を撫でられるとまるで飼い犬のように巨大な頭を主人の体に擦り付けている。
どうやら森に住む魔物ではなかったようだ。食われなかったのはいいが、母に吹き込まれた迷信を一瞬でも信じてしまった自分を恥じた。
それにしても——。
ホルスはクヌムの方を振り返り、その顔をねめつけた。
「全部知ってただろ。俺を試したのか?」
「まあな。なかなかの演技だったろ?」
演技も何も、緊迫した様子もなく終始傍観者だった彼にそれを語る資格はない。しかしホルスにはこれ以上言い合う体力も気力が残っていなかった。
「まあ、何事も経験だ。セトを打ち倒したいならな」
クムヌはそう呟いてホルスの肩を軽く叩いた。
一悶着終えた一行はセべクの神殿に招かれ、まずその立派な様相に度肝を抜かれる。加えてその敷地は広大で、自身が住むそれとは比べ物にならない。
「こんなでかい神殿初めて見た……。」
羨望の眼差しを向けられたセべクは困惑した様子で答えた。
「ここが建てられた当時私は神上がって間もない半可な神でした。しかしナイル川を守護するうち、何故か人々からは軍神として崇められるようになったのです。セトが王座に就き、各地で戦争を引き起こすせいで、図らずもこの様に巨大な神殿が出来上がってしまった訳です」
「そりゃあんなでかくて狂暴なもん飼い慣らしてりゃ軍神とも呼ばれるわな」
ホルスと共に何食わぬ顔で聞いていたクヌムがすかさず口を挟む。
「私、争い事は嫌いなんですよ」
セべクはまるで愚痴をこぼすかの様に呟いた。争いを好まない神が軍神として崇められるとは皮肉なものだ。
しかし見事な装飾や壁画に圧倒される一方、少し目線を落としてみると木製の質素な家具ばかりが並び、何ともちぐはぐな印象を覚える。
木材は貴重とはいえ、永久的に残る神殿には黄金などもっと煌びやかで耐久性のある素材を使うべきだとホルスは思った。
その様子を察してかセベクは二人に席を勧めながら事情を説明する。
「立派なものを建てて頂いたのですが、何だか落ち着かなくて……。せめて家具だけはと、自分の趣味で揃えた結果この様な有様に。いやお恥ずかしい」
勧められるまま椅子に座ると、クヌムが急にホルスの肩に手を置いて言った。
「こいつはホルス。先王オシリスの後を継いでこの国の王になりてえんだと」
経緯など何もかもをすっ飛ばし、端的に放たれた言葉にはそれなりのインパクトがあった。
「後を継ぐ、という事は彼は——」
セベクの視線にホルスは無言で頷いた。
「俺は父の仇を取りその跡を継ぎたい。セトを倒す為に強くなりたいんだ。それが父との約束で、俺の使命だと思ってる」
その言葉に切れ長の目がぱっと見開かれる。
「成程、貴方がオシリス様の……。神という立場でありながらこの言葉を使うのは
柔らかい、けれどどこか悲しげな笑みを浮かべながらセべクは続けた。
「あの方はまさに名君でした。人間からも神からも慕われていた事は間違いありません」
生前の父を知る人物に会うのは母以外では初めてだったホルスは思わず身を乗り出した。
「父上に会ったのか?」
「ええ。……私はオシリス様が殺された日そこに居合わせたうちの一柱ですから」
ホルスは胸が締め付けられる思いがした。しかしそれでも息子として目を背ける事はできない。
聞いておかなければならない。
父の死に際のその一部始終を。
「聞かせてくれ。父上がどんな最期を迎えたのか」
ホルスの言葉にセべクの顔が戸惑いの色を示す。
「宜しいのですか? このお話は息子の貴方には少々堪えるものかと」
セベクがこの出会いを運命だというのなら、きっと父が引き合わせたものだろう。クヌムが自分をここに連れてきたのも、この話を聞かせる為だったのかもしれない。
顔色を変えず真っ直ぐと見つめ返すホルスにセベクはその重い口を開いた。
「あの日はひどく雨が降っていました」
セべクは当時を思い出すように目を細める。
「川の氾濫を案じた私が見回りを行っていた時でした。青々とした川の水がみるみるうちに赤く染まっていったのです」
ホルスは背筋がさっと冷たくなるのを感じた。自分から言い出したとはいえこの後父の惨劇を聞かされるのだと思うと、その額には自然と汗が滲む。
「私は急いで川の上流へ向かいました。すると肩を落とし泣き崩れるイシス様と妹のネフティス様、そしてその胸に抱かれる幼子が泣きじゃくっているのを目にしたのです。そして嘆き悲しむ二人の目線の先に転がっていたのは全身をバラバラに切断されたオシリス様の亡骸の一部でした」
それがどれ程の凄惨な現場だったか容易に想像がつく。ホルスは耳を塞ぎたくなるのを必死に堪え、代わりに額の汗を拭った。
「遺体を繋ぎ合わせれば復活できるかもしれないと、私たちはオシリス様のバラバラの遺体を探し集めました。しかし体の一部がどうしても見つからなかったのです。持って数日の命だと悟ったオシリス様は、冥界に下るまでの数日間で貴方を産み、そしてナイルの守護神としての私に、ある遺言を残されました」
セベクは急に立ち上がり、こちらに歩み寄ったかと思うと、その右腕が突如空を切る。それは抜剣の動きそのものだった。その証拠に彼の左手にはしっかりと剣が握られている。
「セべク……?」
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