第4話𓋴𓉔𓍢𓍢𓎼𓇌𓎡𓇋〜襲撃〜

 ホルスはクヌムに言われるがままその後を追った。


 辺りには鬱蒼とした森が広がっている。

 ただでさえ歩きにくい獣道をものともせず早足で歩き続けるクヌムの後をホルスは必死に追いかけた。


 国土の90%以上が砂漠地帯と言われるこの国で豊かな自然を保っているのは、ナイル川周辺のこの地域以外にない。

 砂漠地帯に住むことは難しく、人々の住まいも必然的にこの地域に密集している。

 エジプトにはほとんど雨が降らないが、川の源流があるエチオピア高原はその限りではない。

 毎年雨季になるとモンスーンが発生し、大量の雨を降らせる。

結果的にその雨がナイル川主流を増水させ、毎年のように氾濫を起こすのだ。

 そのおかげで周辺の緑が保たれ、人々は雨が降らずとも水源を確保する事ができる。


 クヌムの歩くペースにも慣れ始めた頃、ホルスは周りの異様な静けさに気づく。

 これだけの自然の中にいるというのに鳥の鳴き声一つしない。


「……やけに静かじゃないか?」


 ホルスは胸の内にある不安を吐露するように話しかけた。徐々に日も落ち始め、その不気味さに拍車をかけている。


「ま、その辺にいるような平凡な生物はまず入れねぇ。そういう領域なんだよ。ここは。」


 その軽い口ぶりに騙されそうになるが、ホルスにはそれが不穏なものに聞こえてならない。


 神域か或いはその逆かもしれない、とホルスは思った。そして幼い頃に母から聞いた話が頭をよぎる。森の奥深くには神々の手が届かない領域があり、魑魅魍魎が渦巻いている、と。


「何だ怖いのか?」

 にやにやと笑ってクヌムがこちらを見る。


「そんな訳ないだろ。」

 茶化すような言葉をホルスは食い気味に否定した。


「いや、別に悪いって言ってんじゃねぇ。本来恐怖心ってのは、危険を察知して生き延びる本能として生物全般に備わってるもんだ。」


 それに、とクヌムは続ける。


「お前の恐怖心は今まさに正しく機能したって訳だ。」


 どういう意味だ、そう問いかけようとしたホルスの声は突如響いた爆音にかき消された。


「な、何だ……!?」


 耳をつんざくような地響きと舞い上がる砂塵に全ての感覚が遮断され、状況が把握できない。



「お前戦闘経験はあるか?」

 前方から僅かに聞こえるクヌムの声がホルスの意識を現実へと引き戻した。


「え? ……えっと、狩りくらいしか。」

「……狩りね。上手く立ち回らねぇと狩られる側になるかもな。」

「笑えない冗談やめろって。」

「冗談になるかどうかはお前にかかってる。」


 冗談なのか本気なのか分からないたちの悪い言葉がホルスの不安を一層煽った。


 次の瞬間。

 ヒュッと風を切る音と共に砂塵の中から何かがこちらに向かって飛んでくるのが見えた。


 速い……!


 目で追うより先に体が動く。

 ホルスは翼を広げて飛び上がると、ギリギリの所でそれを避けた。


 ……危なかった。

 獲物を逃したそれは凄まじい音を立てて地面を抉る。ホルスはゾッとした。あれに潰されていたらただでは済まなかっただろう。


「ああ。そういやお前、だったな。動きは悪くねぇ。」


 クヌムは特に焦る訳でも助けに入る訳でもなく、呑気にその様子を観察している。ホルスにはそれが何か試されているような気がして気味が悪かった。


 砂塵が収まり、視界が開けてくるとホルスはその光景に目を疑った。見た事もない程巨大なワニがこちらを威嚇するように睨みつけているのだ。先程地面を抉ったのはこいつの尾だったのか。


「何だこいつ……!」

 

 その迫力にホルスは全身から汗が吹き出るのが分かった。その大きさは通常のナイルワニを遥かに凌駕し、こうして見ただけでも軽く10mは超えているだろう。


「そんな怒んなって。別に縄張りを荒らしに来た訳じゃねぇよ。」

 クヌムはワニを宥める様に話しかけるが、到底言葉を理解する様に見えない。案の定ワニは周りの木々をなぎ倒しながら巨大な口を開け物凄い勢いで突進してきた。ホルスはそれをスラリと躱し、ワニの背後へと回った。

 

 このまま逃げるか?――いや、ここで逃がしたら他に被害が出ちまう。ここで何とか大人しくさせねえと。


「こいつをギリギリまで引きつけてくれ!」

 ホルスがそう叫ぶとクヌムはまるで野暮用でも押し付けられたかの様にため息をついた。


「まぁやるしかねえか。……おい! お前の餌はこっちだ。」

 挑発されたワニは当然の如く今度はクヌムに狙いを定め、その巨大な口で噛みつこうとする。クヌムはホルスの言った通りギリギリで避け、上空のホルスを見上げた。


 ――今だ。

 ホルスは先程ワニがなぎ倒した木の幹を持ち上げると、それを閉口したワニの口の上へ落とした。


 獲物を嚙み砕く顎の力は1トンとも2トンとも言われ、その力は地球最強とも称されるワニだが、開口する力は意外にも非力な人間が押さえつけても開かない程軟弱なのである。


 狩りが趣味であるホルスは当然その事を知っていた。大きさこそ違うが同じワニである。ホルスの落とした木の重さで開口出来なくなったワニは混乱してその動きを止めた。


 しかしワニの武器は口だけではない。ホルスは先程地面を抉った尾が再び自分に向けられている事に気づかなかった。


「危な――!」

 クヌムが声を上げた時、それは既に逃げられない距離にあった。もはやどうする事も出来ず、ホルスはぎゅっと目を瞑った。


「ペトスコス、やめなさい。」

 

 突如凛とした声が闇夜に響き渡る。すると目と鼻の先に感じていた気配が消え、辺りは一瞬にして静寂に包まれた。


 何だ……?

 

 ホルスが固まったままそっと目を開けると、目の前に見知らぬ男が立っている事に気づいた。


「随分遅いじゃねぇかセベク。お陰でこいつが死ぬ所だったぞ。」

「申し訳ありません。野暮用が事の他手間取ってしまいまして。」


 セベクと呼ばれた男は申し訳なさそうに頭を下げた。


 月に照らされた顔は青白く、切長の目は神秘的な雰囲気を醸し出している。女性と言われても違和感のないその風貌は野生的な雰囲気のクヌムとは正反対だ。


「……どういう事だよ?」

 状況がまったく理解できないホルスは答えを求め2人に迫る。何だか狐につままれた気分だ。


「私はセベク。ナイル川を守る水神です。そしてこの子はペトスコス。私の眷属です。」 

 

 ペトスコスと呼ばれたワニはセベクの傍ですっかり大人しくなり、顔を撫でられるとまるで飼い犬のように巨大な頭を主人の体に擦り付けている。


 どうやら森に住む魔物ではなかったようだ。ホルスはそっと胸を撫で下ろす。同時に母に吹き込まれた迷信を一瞬でも信じてしまった自分を恥ずかしく思った。しかしこの巨大で凶暴なワニを眷属として手懐けているとは。只者ではなさそうだ。


 それにしても……。


 ホルスはクヌムの方を振り返った。


「全部知ってただろ。俺を試したのか?」

「まぁな。なかなかの演技だったろ?」


 クヌムは悪びれる様子もなく、むしろ得意げに笑った。

 

 道理で冷静な訳だ。しかしホルスの中ではからかわれた事への怒りより、命拾いした安堵の方が勝っていた。それにこれからセトと対峙する事を考えればいい修行になったのかもしれない。


「まぁ、何事も経験だ。強くなりてぇならな。」

 クムヌはそう言ってホルスの肩を軽く叩いた。

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