第3話𓂧𓇌𓄿𓇋〜出会い〜

「ホルス……おい。大丈夫か?」


 また誰かが自分を呼んでいる。

 体を揺すられ、ホルスは徐々に意識を取り戻した。


 ホルスがうっすらと目を開けると、誰かが顔を覗き込んでいるのが分かる。


「……ひ、羊?」

 思わず気の抜けた声が出た。視界一杯に広がったその顔は思いのほか迫力がありホルスはギョッとする。


「俺は羊じゃねぇ。クヌムだ。」

 不機嫌そうな声で羊が喋る。

 

 何とも不思議な光景にホルスは思わず目を擦り、その顔を凝視する。すると喋っていたのは羊ではなくその横にいる男である事が分かった。


「ここは……?」

 ホルスはのそのそと体を起こし、うわ言の様に呟いた。


「んー。ナイル川の下流辺りか。川の見回りをしようと思って来てみりゃ、やけにでけぇ動物がいるじゃねえか。結局それがお前だった訳だが。まさか何も覚えてねえのか。」


 下流。

 ホルスは未だ醒めきっていない頭でぼんやりと考えた。自分が溺れたのは確か上流の方だったから、随分流れてきてしまった事が分かる。


 徐々に頭が冴えてくるとホルスはある違和感に気づいた。左腕がやけに軽いのだ。


「腕輪! あんた俺の腕輪知らないか?」

 そう言ってホルスは慌てて辺りを見回す。


「腕輪? ……ああ、これのことか? 一緒に打ち上げられてたから一応、拾っておいた。」

 ホルスはそれを半ば奪う様に受け取り、慌てて腕に通した。


「よかった……! なくしたかと思った!」


 その様子を男は怪訝そうな顔で見つめる。


「その腕輪がそんなに大事か? お前を見る限りそこまで見た目にこだわってる様には見えねぇが。」

「ああ。大事なんだ……本当に。――ありがとな。」


 ホルスが礼を言うと男はああ、と素っ気ない返事をした。ホルスは改めて目の前の男、クヌムをまじまじと見つめる。


 肌は浅黒く、新緑を思わせる緑髪が無造作に伸びている。そしてその隙間から燃えるような緋色の瞳がこちらを伺うように覗いていた。


 しかし特筆すべきはその身なりである。着ている服はあちこち破れているし、どこかで泥浴びをでもしたのかと思う程に汚れている。とても人の事を言えたなりではない。この上なく怪しい男だと言うのに、その精悍な顔立ちと風格がそれを感じさせないのが何とも不思議である。


 ……何なんだこの人は。

 ホルスはこの男が醸し出す不思議な雰囲気に釘付けになった。


 それが顔に出ていたのかクヌムはまた眉をひそめる。


「……おい、まだ寝ぼけてんのか?」


「あ、いや…つい見惚れて……。」

 しまったと思った。ホルスには思った事をすぐ口にしてしまう癖がある。


 それを聞いたクヌムがぷっと吹き出した。


「お前に言われてもなぁ……。そういうのは女を口説く時に取っときな。」


「い、いや別に変な意味じゃなくて! ただ俺は……!」

「分かってるよ。」


 慌てて弁明する姿がツボにはまったのか、彼は声を押し殺しながらくつくつと笑った。


 ……そんなに可笑しかったか?

 ホルスは少しむっとしながら、ふと湧いてきた疑問を口にする。


「……あんたさっき名前呼ばなかったか? 俺の名前、何で知ってるんだ?」


 自分が知らないだけで、どこかで会っているんだろうか?

 しかしどれだけ記憶を辿ってみてもそれらしい人物は出て来ない。そもそもこんな個性的な身なりの男を忘れる筈がないのだ。


「知ってるさ。お前がオシリスの息子だって事もな。」

 ホルスはますます混乱する。この男は一体誰なのだ。


「親が子供の名前を忘れる筈がねぇだろ。」

 

 言葉の意味がわからずホルスは答えを求めるようにクヌムを見る。自分の親はイシスとオシリス、この2柱だけだ。


「創造神と言えば分かるか?」

 言っている事は分かる。だが創造神なる者が自分の前に現れる事などある筈もない。目の前の男がそうであるとは到底信じ難いのである。


「まぁ正確には俺とアトゥムの2柱で、なんだが。」


 アトゥム・ラー

 ホルスの高祖父にあたり、このエジプトの地に最初に生まれた神である。一応遠い親族だと認識しているが顔を合わせたことは一度もない。


「で、その創造神が何でこんなとこにいるんだ?」

 その独特な身なりも相まってクヌムの正体が未だに信じられないホルスは露骨に疑いの目を向ける。創造神たる神がこんな所にいる筈がない。やはりそう思ったのだ。


「全ての始まりとされたヌンはこの川の源流から生まれた。人間の文明も生活もここから発展したんだ。この川は全ての生命の源。そして俺はこのナイルの番人だ。分かるか?」


 この川がそんな神聖な川だったとは……。

 ホルスは改めて流々と流れるナイル川に目を向ける。


 普段何気なく訪れていた場所。

 この川で無数の生命いのちが誕生し、営みを繰り返してきたのだ。


 ホルスはようやくこの男の言う事に信憑性を感じ始める。

 と言っても何となく、だが。


「俺も1つ聞きてぇんだがお前、何でこんな所に倒れてた? まさか一端の神が溺れたとか言うんじゃねぇだろうな?」


 そのまさかだ。

 しかし口にする前に顔に出ていたらしい。それを見てクヌムは軽くため息をついた。


 ホルスは再び弁明する様に川の中での出来事を全て打ち明ける。

 何者かに襲われて川に落ちたこと。その川の中で父に会い、事実を聞かされたこと。


「会ったばっかのあんたに話すのは変だと思うけど俺……後悔したんだ。何でちゃんと向き合って来なかったんだって。過去に本当は何があったのか、知る機会は何度もあったのに。父が殺されたことすら知らねえなんて……。」


 クヌムはホルスが話している間、相槌を打つでもなくただ黙ってその話に耳を傾けていた。そして全て話終えると静かに口を開く。


「で、どうすんだ。」

 その問いにホルスは目を丸くする。


「これからだよ。後悔してそれで終わりか?」

 クヌムは肩肘をつきながらこちらをじっと見つめている。


「俺は…。」

 脳裏に父の顔が浮かび、ホルスは意を決して胸の内にある思いを吐露した。


「俺は先代の王オシリスの息子として叔父セトから王位を取り戻したい。」

 その答えにクヌムは微かな笑みを浮かべる。


「……ついて来い。」


 クヌムはそう言って立ち上がり、ホルスの返事を待たずしてそのまま森の方へ歩き始めた。ホルスは慌ててその後を追う。


「待て、どこへ行くんだ?」

 その問いにクヌムは歩きながら答えた。


「会わせたい奴がいる。」

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