第6話𓂧𓇌𓄿𓇋〜出会い〜

「ホルス。……おい、大丈夫か?」

 

 また誰かが名前を呼んでいる。

 体を揺すられ、ホルスは徐々に意識を取り戻した。


 目を開けた瞬間、視界いっぱいに広がるにホルスは小さく悲鳴を上げる。その顔を覗き込んでいたのは神でも人でもなかった。


「……ひ、羊?」

「俺は羊じゃねえ。クヌムだ」


 不機嫌そうな声で羊が喋る。

 ホルスは思わず目を擦り、その顔を凝視した。


「お前と喋ってるのは俺だよ。こいつじゃない」


 そう言って羊の頭を撫でる手がようやくホルスの誤解を解く。喋っていたのは羊ではなく、その隣で胡座をかく男だった。


「ここは……?」

 体を起こし辺りを見回すが、どこも見慣れない景色ばかりでホルスは急に心細くなった。


「上下エジプトの堺、下界でいう所のメンフィス辺りだな。川の見回りをしようと思って来てみりゃ、やけにでかい動物がいるじゃねえか。試しに狩ってやろうかと思ったんだが——」


 成程、それが俺だったという訳か。


 ホルスは未だ醒めきっていない頭でぼんやりと考えた。自分が溺れたのがアスワン近郊だとすると、随分と長い距離を流れてきた事になる。


 そうして徐々に頭が冴えてきた所でホルスはある事に気づく。


「腕輪! あんた俺の腕輪知らないか?」

 片腕がやけに軽いと思えば、左腕に着けていた筈の腕輪が消えていた。


「これのことか? 一緒に打ち上げられてたから一応、拾っておいた」


 アカシアの木に止まり、大きく羽を広げた鳥。見覚えのある彫刻にホルスはほっとため息をつく。そしてクヌムと名乗った男が差し出したそれを半ば奪う様に受け取った。


「よかった……!」


 その様子をクヌムは怪訝な顔で見つめる。


「そんなにその腕輪が大事か? お前を見る限りそこまで見た目にこだわってる様には見えねえんだが」


「ああ。大切なんだ。……本当に」

 ホルスはその腕を抱くようにして呟く。


「……女か?」

「違ぇよ!」


 彼に礼を言いつつ、ホルスは改めてその姿をまじまじと見つめた。


 肌は浅黒く、新緑を思わせる萌木色の長い髪が風に揺れる。鬱陶しいとばかりに彼が前髪を掻き上げると、燃えるような緋色の瞳と目が合った。


 だが特筆すべきはその身なり。上等な麻布で織られた衣服は土で汚れ、所々破けてしまっている。彼がどんな生活を送っているのか知らないが、まるで自分を見ているようだとホルスは思った。とても人の事を言えたなりではない。


 この上なく怪しげな男だが、精悍な顔立ちと独特の風格がそれを感じさせない。


 ……何なんだこの男は。

 ホルスはこの男が醸し出す不思議な雰囲気に釘付けになった。


 それが顔に出ていたのかクヌムがまた眉をひそめる。


「……おい、まだ寝ぼけてんのか?」

「いや、つい見惚れて……」

 

 しまったと思った。思った事をすぐ口にしてしまう癖は自覚していたが、それが今最悪のタイミングで出てしまった。


 それを聞いたクヌムは案の定吹き出す。


「お前に言われてもなぁ……。そういうのは女を口説く時に取っときな」

「い、いや別に変な意味じゃなくて! ただ俺は……!」

「分かってるよ。」


 慌てて弁明する姿がさらに可笑しかったのか、彼は声を押し殺しながらくつくつと笑った。


 そんなに笑う事はないだろう。

 ホルスは少しむっとしながら、ふと湧いてきた疑問を口にする。


「あんた、何で俺の名前を知ってるんだ?」


 自分が知らないだけで、どこかで会っているんだろうか?

 もしそうだとしても、こんな不審な男の顔を忘れる筈がない。


「知ってるさ。お前がオシリスの息子だって事もな」

「何で……」

 

 ホルスはますます混乱した。自分と、父の名まで知っているこの男は一体何者なのだ。


「親が子供の名前を忘れる筈ねえだろ」

「どういう意味だ。俺の父がオシリスだって言ったのはあんただろ?」


 それとも俺には父親が二人いるとでもいうのか?

 

「創造神、と言えば分かるか?」

 勿論、聞いた事はある。天地を創造し、エジプトの神々、つまり我々を産み落としたという神の逸話は幼少期、母によく聞かされていた。


「アトゥム神の事か?」

「そうだな。だが創造神はあいつだけじゃない。一応、俺もそうだからな。」


「創造神? あんたが?」

 クヌムの言い分にホルスは耳を疑う。もしそれが本当なら、想像していた神とは大分印象が違う。


「そうだ。親にそう習わなかったのか? 因みに人間に信仰された歴史は俺の方が長い。」


 ホルスは未だ疑いの目を向けながらも、やはり彼への興味を捨て切る事が出来なかった。


「で、その創造神が何でこんなとこにいるんだ?」


 ホルスの問いかけにクヌムは目の前を流々と流れるナイルを指差して言った。


「全ての始まりとされる生命体ヌンはこの川の源流から生まれた。神も人間の文明も生活も、全てここから発展したんだ。この川は全ての生命の源。そして俺はこのナイルの番人だ。分かるか?」


 普段何気なく訪れていた場所。

 この川で無数の生命いのちが誕生し、営みを繰り返してきたのだ。


 何となくではあるものの、ホルスはようやくこの男の言う事に信憑性を感じ始めた。


「俺も一つ聞きたいんだがお前、何でこんな所に倒れてた? まさか一端の神が溺れたとか言うんじゃねえだろうな?」


 そのまさかだ。

 ホルスは川の中で再会した父の顔を思い出す。


 父を奪った男への憎しみ、志半ばで冥界ドゥアトへと旅立った父の無念を思うと今にも叫び出しそうになる。だが今はそうするべきではない。他でもない父がそう言っているような気がした。


 自分でもよく分からないが、気づけばホルスは目の前の男に全て打ち明けていた。


「会ったばっかのあんたに話すのは変だと思うけど俺、後悔したんだ。何でちゃんと向き合って来なかったんだって。本当は過去に何があったのか、知る機会は何度もあったのに。父が殺された事すら知らねえなんて……」


 ホルスは拳を握り、前を見据えた。


「だから俺、決めたんだ。父の代わりにこの世界を治めるって。それが父上との約束。そして俺自身のけじめだ」


 のらりくらりと日々を過ごしてきたホルスにとってその事実は単なる闇ではない。怒り、悲しみ、そして希望。それらが原動力となり、彼に生きる意味と力を与えたのだ。そしてこれが自分の運命なのだとホルスは思った。


「……けど俺、一つだけ分からねえ事があるんだ。王になって、民を守る。父上が何千年もかけて守ってきたものを引き継ぐ資格が俺にあるのかなって」


 ホルスの中で守るべきもの、そして守りたいものの間には大きな差があった。それでは民の命を預かる王としてあまりにも頼りない。そんな気がしてならないのだ。


「不安なんだ。俺にとって命を賭けて守りたいと思えるのは家族だけ。いくら力があっても民を守りたいと心から思えない俺は、王に向いていないんじゃないかって」


 ホルスが話している間、相槌を打つでもなくただ黙って聞いていたクヌムはその問いには答えず、ただ一言呟いた。


「ついて来い」


 そう言って立ち上がり、彼はホルスの返事を待たずしてそのままどこかへ歩き始めた。


「待て、どこへ行くんだ?」


「会わせたい奴がいる」

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