第5話𓋴𓍯𓍢𓋴𓄿〜捜査〜

 ――面倒な事になった。

 母の背中を見送りながらアヌビスは心の中で舌打ちをする。

 

 今まで人を率いた事などないアヌビスにとってそれは難題以外の何物でもなかった。だがこれは同時にチャンスでもある。特に容疑者の一人であるあの男について調べるには絶好の機会だ。


「メリモセ。今回の事件について何か知っている者がいないか探ってくれないか」


 神官の中でも最年長である大神官メリモセは、聖職者としての才覚と統率力、そしてその温厚な性格をもってして皆から絶大な信頼を得ている男である。神官達からより多くの情報を聞き出すには、彼の人望が必要だった。


「かしこまりました。命を奪われた神官達の為にも全力を尽くしましょう」

 メリモセは深々と頭を下げ、うやうやしく部屋を出て行った。


 一方のアヌビスは犯人の痕跡を探すべく神殿の最奥、殺害現場である至聖所へと向かう。


 奥に進むにつれ人の気配が消え、やがて神聖な空気が辺りを包んだ。至聖所を前にしてアヌビスは自然と背筋を伸ばす。しかしいざ中に足を踏み入れてみると、想像していたのとは真逆の感覚がアヌビスを襲った。


 空気が淀んでいる。

 纏わりつくような陰鬱な空気にアヌビスは思わず顔をしかめた。神殿の中で最も神聖であるこの場所は一段と神気が満ちる場所だ。空気がピンと張り詰め、背筋が伸びるようなあの感覚をアヌビスは覚えていた。


 これらは恐らく虐殺された神官達の死がもたらしたものだろう。不老不死であり、神聖な存在である神にとって人間の「死」は忌むべきものの一つである。それらは神の身を穢し、力を弱める事に繋がるからだ。故に死を連想させる人間の遺体や血などはことごと嫌厭けんえんされる。


 しかし一方で、それらを克服する神もいる。戦争を利用して人間を虐殺し、逆に力に変えてしまうのだと。そうして悦に浸る男をアヌビスは知っていた。


 やはりあの男が一枚嚙んでいるのだろうか。


 胸騒ぎを覚えながら薄暗い室内に蝋燭の火を灯すと、神像が淡い輪郭を現す。祭壇の上には神に捧げる供物と香炉が置かれていたが、その香炉からはまだ煙が立っていた。


 夜の儀式はとうに終わっている筈だ。それとも儀式の後、誰かがここで祈りでも捧げたとでもいうのだろうか。


 しかし通常一日三回行われる儀式の時以外ここは常に暗がりで人の出入りはない。そもそも神官の中でも限られた者しか立ち入る事が出来ない場所である。


 そしてアヌビスはもう一つ、周囲に漂うその香りにも違和感を覚えた。


 この神殿の儀式では朝、昼、夜で香を使い分ける。夜に使われるのは複数の植物香料からなるキフィで、甘さの中にスパイスを感じるその香りは神秘に満ちていた。しかし今室内に漂うのは昼の儀式で焚くミルラの樹脂の香りなのだ。


 儀式の知識がない者が見よう見まねで焚いたのか、他の神殿の作法なのかは不明であるが、不審な人物が何らかの意図を持ってここに忍び込んだのは確かである。


 この神殿で一体何が起きている?


 複数の侵入者がこの神殿を、そして母を陥れようとしている。多くの疑念と見えざる脅威がアヌビスの思考を奪う。


「アヌビス様」


 ふいに鼓膜を揺らしたの声はアヌビスを暗い意識の底から救い出した。


「見つかったのか?」

 我に返ったアヌビスは声の主、キオネに答えを迫る。


「いえ、ナイルの上流あたりで気配が消え、追えなくなりました。周囲を探しましたが、見つけたのは羽だけで……。申し訳ありません」


 嫌な予感がする。

 絞り出すように告げられた事実はアヌビスの不安を掻き立てた。


「ただ周囲に別の気配が」

叔父セトか?」


 ホルスにいくら放浪癖があると言っても、こうも長時間音沙汰がないとなると事件か事故かそのどちらかを疑わざるを得ない。そうなると必然的に挙がるのは彼の名だった。


「あれは神ではない。人間のものです」

「何だと?」


 キオネの答えはアヌビスの予想を裏切るものだった。


 セトはおろか神のものでもないとなると話が見えてこない。半神とはいえ人間にやられてしまうほど柔ではない筈だ。


 思考を巡らすアヌビスの脳裏にふとある光景が蘇った。

 

 あの時感じた違和感。


 もしやあいつが——。

 アヌビスの額に汗が滲む。


 アヌビスは通りかかった神官に声を掛けるとすぐさま外へ飛び出した。


 気づいてしまったのだ。

 この神殿にがいる、と。

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